【中学歴史・第22回】鎌倉幕府と執権政治

中学歴史

平氏を滅ぼした源頼朝みなもとのよりともは武士による政治をスタートさせます。

しかし、頼朝の死後、その権力は北条氏に移っていきます。

義経を滅ぼし、東北地方も支配

平氏を壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかいで滅ぼしたあと、最大の功労者であった源義経みなもとのよしつねと、義経の兄である頼朝の仲がこじれます。

義経が後白河法皇ごしらかわほうおうから官位を授かったことが、頼朝の怒りをかってしまいました。

「武家の棟梁とうりょうである自分の許可なく、勝手なことをしやがって!」というのが、頼朝が怒った理由だそうです。

一方、後白河法皇の方では平氏を滅ぼした源氏の勢いを恐れ、義経に頼朝追討を命じました。

が、義経は戦うことなく、東北地方の奥州藤原氏おうしゅうふじわらしを頼って落ちのびます。

逆に頼朝は義経を捕らえることを口実に、国ごとに守護しゅごを、荘園や公領には地頭じとうを設置することを、後白河法皇に迫り、認めさせました(1185年)。

義経は奥州藤原氏にかくまってもらっていましたが、頼朝は義経を引き渡すことを藤原泰衡ふじわらのやすひらに要求します。

頼朝との対立を避けたかった泰衡は、義経の館に兵を差し向け、自害に追い込みました…。

頼朝は結局その後、義経をかくまったとして奥州藤原氏を攻め滅ぼし、東北地方を支配下におさめます。

泰衡は頼朝の要求に屈することなく、義経と一緒に戦った方がよかったのかもしれませんね。

封建制度とは?

1192年、頼朝は征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなります。

先に述べたように、1185年には守護、地頭を各地に置いていたので、征夷大将軍になる前から統治は始まっていたのですが、これで名実ともに武家のリーダーとなったわけです。

頼朝は鎌倉に拠点をおいていたので、この政権を鎌倉幕府かまくらばくふといい、幕府が成立してから滅亡するまでを、鎌倉時代かまくらじだいといいます。

幕府が武士を支配する上で、ベースとなったのが「土地」でした。

一生懸命という言葉のもとになった、「一所懸命いっしょけんめい」という言葉がありますが、これは武士が大切にしている領地を「命をけて守る」ということから生まれた言葉だそうです。

それくらい領地を大事にしていたんですね。

鎌倉の将軍は、自分に仕える武士である「御家人ごけにん」に、先祖伝来の領地の所有を認めたり、新たに領地を与えたりしました。

これを「御恩ごおん」といいます。

その代わり御家人は、京都や鎌倉で警備にあたったり、戦があった場合は「いざ鎌倉」とかけつけて戦いました。

これを「奉公ほうこう」といいます。

この御恩と奉公の関係で結ばれる制度を「封建制度ほうけんせいど」といいます。

鎌倉幕府の仕組み

頼朝がいたころの幕府の仕組みは、↓こんな感じです。

侍所さむらいどころ問注所もんちゅうじょ政所まんどころの3つは「何をする機関なのか」とあわせて、必ずおさえておきましょう。

※政所は最初「公文所くもんじょ」といわれていました。
※京都守護と鎮西奉行ちんぜいぶぎょうは、テストに出る可能性は低いので、あまり気にしなくてもOK。

頼朝が亡くなったあと、息子の頼家よりいえが継いだのですが、頼家には父ほどの求心力がなかったのか、部下である御家人たちの発言力が増します。

NHKの大河ドラマにもなった『鎌倉殿の13人』による合議制がスタートしました。

この御家人同士でも争いがあったのですが、勝ち上がったのが北条氏です。

北条時政ほうじょうとうきまさは将軍を補佐する執権しっけんという役職に就き、その座は息子の義時よしときが継ぎます。

大河ドラマではこの義時の役を小栗旬さんが演じていましたね。

将軍家の方は、頼家が伊豆に幽閉されたあと暗殺され、3代目は頼家の弟である実朝さねともが継ぎます。

しかし、実朝も頼家の次男である公暁くぎょうに暗殺され、源氏の直系はここで絶えてしまいました。

承久の乱が勃発!

この跡目争いのゴタゴタをチャンスと思った京都の後鳥羽上皇ごとはじょうこうは、兵をおこします。

これが承久の乱じょうきゅうのらんです(1221年)。

ヒーフーフイー1221、承久の乱」で覚えましょう。

このとき、頼朝の妻であり、義時のお姉さんでもある北条政子ほうじょうまさこが、御家人に結束を訴える有名な演説を行いました。

その一部が教科書や資料集にも載っていると思いますので、チェックしておきましょう。

戦いの方は幕府軍が朝廷軍を破り、後鳥羽上皇は隠岐おき(島根県)に島流しとなります。

幕府は上皇に味方した西国の武士から領地を取り上げ、それを御家人に与えましたので、幕府の支配は東北から西日本にいたるまで広がりました。

ちなみに承久の乱後の幕府の仕組みはこんな感じです。

※執権は承久の乱の前からすでに設置されておりました。
※評定衆は3代執権の泰時が「十三人の合議制」を少し形を変えて設置したものです。
※鎮西探題は元寇の後に設置されました。

六波羅探題ろくはらたんだいを設置して、朝廷の監視を強めたのがポイントです。

また、将軍は京都の摂関家から迎い入れましたが、実質的な力はありませんでした。

武士の法律、御成敗式目をつくった

北条義時のあとを継いだのは、息子の泰時やすときです。

泰時は実務に優れた人だったようです。

それまで武士の社会の中で行われきた慣習を法律にまとめた御成敗式目ごせいばいしきもくを定めます(1232年)。

作られた年号から貞永式目じょうえいしきもくともいいます。

いちさん、武士もわかる御成敗式目」と覚えましょう。

チェックテスト

北条氏の祖先は桓武平氏だそうです。

最初から狙っていたわけではないと思いますが、北条氏が源氏に変わって幕府を支配しました。

ということは、源平合戦は平氏が最終的に勝った、ということになるんでしょうか…。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

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