ここでは鎌倉時代の武士と民衆の暮らしぶりについて説明します。
平安時代の貴族と武士の暮らしぶりを比べてみよう。
また、鎌倉時代の民衆の生活で生まれてきた「新しいこと」にも注目しよう。
鎌倉時代の武士の生活
この時代の武士は先祖伝来の土地に住むのが普通でした。
御家人は地頭として、年貢の取り立てや治安維持を通じて、農民を支配しようとしました。
彼らはすきあらば領地を拡大したいと考えていたので、荘園や公領の領主と衝突することもありました。
中にはけっこう無茶をする地頭もいたようです。
史料として有名なのが、紀伊国(和歌山県)阿氐河荘の農民の訴えです。
京都のお寺が所有する荘園で、地頭の湯浅氏が農民に対してひどいことをするので何とかしてくれという訴状です。
訴状の中には「ミミヲソギ、ハナヲソギ、カミヲキリテ」といったことも書かれています。
オソロシイ…。
鎌倉幕府は土地の権利争いでもめた場合、裁判を行っていました。
「幕府が裁判するのだから、そりゃ地頭に有利だろう」と思いきや、意外と公平な裁判だったようです。
これまた史料として有名なものがありまして、伯耆国(鳥取県)東郷荘下地中分絵図が教科書などに掲載されているのではないでしょうか。
この荘園は京都の松尾神社が領家(持ち主)でした。
管理は東郷氏に任されていたのですが、鎌倉幕府が成立し地頭になると、幕府の力をバックに領家の権益を侵しはじめたため、対立が起きてしまいました。
そこで幕府が間に入ります。
裁定の結果は「はんぶんこ」。
下地中分の「下地」とは、土地からの収益を上分というのに対し、土地だけのことを指します。
このような土地を折半することを下地中分といいます。
領家の中には地頭と対立することをあきらめて、荘園の管理を一切任せてしまい、一定の年貢だけを納めさせる地頭請が行われるケースもありました。
このようにして、地頭は徐々に土地の支配力を高めていったんですね。
「泣く子と地頭には勝てぬ」とは、よく言ったものです。
弓馬の道に励む武士
この時代の武士は土地に対して貪欲であった一方、武芸の訓練も頑張っていました。
まず住まいとなる館(「たち」とも読みます)を、農村の一角である小高い場所や交通の要所におきました。
家は質素なつくりで、屋根は板葺き、床も板を敷いて、畳は最小限に座るところだけ。
その分、戦いに備えて、館の周りを堀と塀で囲みました。
普段から、「弓馬の道」とよばれる流鏑馬、笠懸、犬追物や巻狩などの武芸の(遊びも兼ねた)訓練に励んでいました。
- 流鏑馬…2町の直線馬場に馬を走らせながら、左側にある的3つを連続で射抜く。
- 笠懸…流鏑馬と似ているが、的が左右、高低、大小と変化がついているもの。
- 犬追物…36の騎手が、犬150匹を追いかけ、矢で射る。矢は刃がついていないものを使用する。
流鏑馬、笠懸、犬追物を合わせて騎射三物といいます。
一方、学問にはあまり関心がなかったようです。
武士独特の価値観があり、武勇や礼節、恥を知ること、倹約などを重んじました。
こうした考えは「武士のならい」とか「兵の道」などと言われ、のちの武士道のもとになりました。
食事や服装は?
武士はふだん直垂という服を着ていました。

直垂は平安時代の庶民の服です。
少し改まったときは、(もとは貴族の平服だった)水干という服を着ました。
武士は基本的に質素な格好をしていたんですね。
ちなみに女性は(もとは下着であった)小袖に細帯という服装でした。
食事は朝と夕の1日2回です。
主食は玄米。
一汁一菜のスタイルで、服装と同じく食事内容も質素なものが奨励されていたようです。
たまに狩りでとったイノシシやうさぎなども食していたので、都の貴族からは白い目で見られていたとか…。
一族の団結
武士団は親戚関係のような一族をつくっておりました。
この一族のことを一門とか一家といいます。
一門の長を惣領、惣領以外の子弟を庶子と呼びました。
惣領は一門の責任者として、幕府は惣領に「どこそこを守れ」といった命令を下し、惣領は庶子に仕事を割り振りました。
戦がないときは、地元で祭祀などの行事ごとを仕切るのも惣領の役割でした。
こうした武士団のあり方を惣領制といいます。
惣領が亡くなったときは、子弟たちに所領を分け与える分割相続が行われました。
女子であっても相続で分配されましたので、女子が地頭になるケースもあったようです。
この時代の女性は比較的地位が高く、家の中を取り仕切る役目を担っていました。
また、女性が男性の家に嫁ぐ「嫁入り婚」が一般的でしたが、結婚後も実家の氏姓で呼ばれていました。
鎌倉時代の農業や商業は?
多数を占める農民には変化があったようです。
鎌倉時代に入ると、畿内やその周辺で二毛作が広がりました。
夏から秋にかけては米(表作)を、その後は麦(裏作)を植えて収穫するようになりました。
農業に水車や牛馬を利用し、鉄製の農具も普及しはじめたので、収穫高はかなりあがったようです。
村には農具を作る鍛冶屋さんや衣服の染め物を行う紺屋さんなどの手工業者も住んでいましたので、モノも手に入りやすそうです。
肥料としては、草や木を焼いて灰にした草木灰をまいたり、草を土にすきこんで緑肥にする刈敷も行われました。
たくさんできた作物を市に出しました。
寺社の門前や交通の要所などで定期市が開かれ、港や主要な街道には町もできはじめます。
宋から宋銭も輸入され、一部では利用されていました。
農業、商業ともに徐々に発展していく様子が感じられますね。
チェックテスト
今回のような「暮らし」や文化などは、具体的なモノがたくさん登場しますので、資料集などで随時確認しながら進めるようにしましょう。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



コメント