日本は島国であるおかげで、外国から攻めてこられるのは数えるほどしかありません。
今回は外国に襲撃をくらったけど、なんとか撃退できたという話。
鎌倉時代の最終回です。
元からの国書
前回は、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を征服したところまで進みました。
元のフビライ=ハンは、東アジアへの進出にも積極的で、朝鮮半島を支配していた高麗を攻めつつ、日本にも朝貢するよう国書を送ります。
国書というのは、国のトップが外国のトップに向けて送る外交文書(手紙)です。
朝貢とは、中国の皇帝に対して、貢物を送ることです。
要は「自分たちに臣従せよ」というわけです。
当時、外交は京都の朝廷ではなく、鎌倉幕府が仕切っていました。
幕府の執権は8代目の北条時宗。
この難しい外交問題の最中に、18歳という若さで執権に就任します。
時宗は「なめられたらアカン!」と思ったのか、元からの国書に対してかなり強気に対応し、一切無視を決めこみます。
朝廷では「返事だけでもしたら…」と、返事の案まで作成したのですが、時宗は無視の姿勢を貫きます。
その後も元は国書を送り続けますが、時宗はやっぱり無視し続けました。
毅然とした態度といっていいのか、この対応には後の時代でも評価が分かれます。
1回目の襲来、文永の役
1273年に高麗を完全に服属させた元は、翌年、とうとう軍を送り込みます。
1274年(文永11年)10月におきた、文永の役です。
朝鮮半島の合浦から出発した元と高麗の連合軍は、対馬と壱岐を襲い、さらに博多湾に上陸してきます。
元や高麗の兵隊は、鎌倉武士のように「やぁやぁわれこそは~」と名乗りを上げることもなく、一騎討ちをするのでもなく、戦い方が全く違い、武士たちは戸惑います。
外国の兵隊なのだから、戦い方が違うことはある程度予想はしておいてところですが…。
元と高麗の連合軍は、集団戦法をとり、「てつはう」と呼ばれる火薬系の武器や、毒矢を使ったと言われています。
戦いの初日から敵に本土上陸を許してしまい、日本側は大ピンチに陥りました。
が、夜になると彼らは引き上げ、そのまま朝鮮の合浦に戻っていきました。
日本にとってみたら、ラッキーな展開です。
「もともと元にとってこの戦いは、最初から偵察のようなものだった」とか、「仲間割れがあった」と言われています。
あと「武士たちが意外と強かったから」という説もあります。
2回目の襲来、弘安の役
1回目の戦いの反省点をふまえ、日本側は元の再来に備えます。
九州北部を警備する異国警固番役を強化するとともに、博多湾沿岸に防塁を築きました。
鎌倉時代には御家人でない武士がいましたが、緊急事態ということで非御家人も動員されることになりました。
文永の役のあと、2回目はなかなか攻めてきませんでしたが、1279年に南宋を完全に滅ぼしたあと、また博多湾にやってきました。
これが1281年(弘安4年)におきた弘安の役です。
前回の文永の役では3万人ほどだった軍勢が、こんどは朝鮮半島から4万人(東路軍)、慶元(寧波)から10万人(江南軍)に膨れ上がっていましたが、日本側はよくもちこたえました。
幸運にも暴風雨があり、元の船団の大半が沈んでしまいます。
元の連合軍は大打撃を受け、二度目の攻撃もなんとか防ぐことができました。
これらの2度にわたる元の侵略を、蒙古襲来(モンゴルの襲来)とか、元寇と呼んでいます。
蒙古襲来のその後
この戦いで勝つには勝ちましたが、大きな問題が残りました。
御家人は戦うことで「奉公」を行いますので、当然見返りとしての「御恩(=領地)」を求めます。
しかし、外国に対する防衛戦であったため、幕府としてもあらたに土地を得たわけではなかったからです。
また、2度も襲来を防いだとはいえ、また3回目もあるかもしれず、防備は続けなければいけません。
褒美をもらえないばかりか、警固は続けなければいけない状況に、御家人の不満はたまります。
一方、北条氏一族には権力が集中します。
義時や泰時の時代には御家人による合議制が行われましたが、北条氏の一族や家臣が幕府を動かすようになっていったのです。
困窮化する御家人
この頃、この蒙古襲来とは別に、御家人の方で経済的な問題が起きていました。
惣領制のもと、分割相続を繰り返してきたことで、土地がどんどん減り続けていました。
借金のために土地を失うものや、土地を売ってしまう御家人がでてきていたのです。
そこで、鎌倉幕府は1297年に永仁の徳政令を発します。
御家人が土地を売買することや質入れすることを禁じるとともに、すでに借金で失った土地や売却した土地を元の御家人のもとに戻させたのです。
これは御家人を助けるために出されたものでした。
しかし効果は一時的で、御家人の経済状態はよくなりませんでした。
また分割相続から、一人の相続者がすべての財産を引き継ぐ単独相続が広がっていきました。
鎌倉幕府が滅亡
蒙古襲来や御家人の経済状況の悪化、また北条氏一族による権力の独占に、御家人の不満が高まりました。
豊かになる武士がいる一方で、年貢を納めず、領主や幕府に抵抗するものが現れるようになりました。
こうした武士たちのことを悪党といいます。
単独相続が広がり、財産を相続できなかった武士が悪党になったと言われています。
その頃、天皇家でも皇位継承の問題でもめていました。
天皇を誰にするかを鎌倉幕府が決めていたため、そのことに不満を持った後醍醐天皇が倒幕を計画したのです。
当初、討幕運動はうまく進まず、幕府側にバレたこともあって、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に流されます。
隠岐は承久の乱で負けた後鳥羽上皇の流刑地でもありましたね。
しかし後醍醐天皇は流刑後もあきらめず、島を脱出します。
力をつけていた悪党の楠木正成や、関東の有力御家人である足利尊氏、新田義貞などを味方につけることに成功。
尊氏も、義貞も、源氏の血筋を引いていたため、北条氏一族に対しての不満も強かったことでしょう。
尊氏は京都の六波羅探題を、義貞は鎌倉を攻撃し、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
「一味(いちみ)さんざん、北条氏滅亡」で年も覚えましょう。
チェックテスト
鎌倉幕府が滅んだ理由はどこにあるのでしょうか。
【御家人側の事情】蒙古襲来→御家人には褒美が少ない一方で、北条氏に権力が集中→分割相続により、御家人は困窮化→御家人の間で不満がたまる。悪党は反幕府的な活動→倒幕へ
【天皇家の事情】皇位継承に幕府が影響力を持つ→皇位継承に納得できない後醍醐天皇→倒幕へ
鎌倉幕府が滅んだ理由はテストに出題されることもありますので、自分なりに説明できるようにしておきましょう。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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