室町時代も後半です。
今回は15世紀から16世紀にかけてのお話。
義満の頃は景気がよかった室町幕府ですが、義満が亡くなってしばらくすると雲行きが怪しくなっていきます。
足利将軍の承継しょうけい問題
3代将軍の義満は息子の義持に将軍の座をゆずったあとも、実権を握ったまま政治を動かしました。
義持はお父さんである義満のことがあまり好きではなかったようで、義満が亡くなったあと、父親が行っていた日明貿易をやめてしまいます。
そんな義持は息子の義量を5代将軍としますが、義量は17歳で亡くなってしまいました。
義量にはアルコール依存症だったという説があります。
義量には子がいなかったのですが、父の義持も次の後継者を指名しないまま、この世を去ってしまいました。
そこで重臣たちは「石清水八幡宮のくじで次の将軍を決めよう」と考えます。
というと、すごく適当でいい加減な感じがしますが、「天が選んだ」とも言えるかもしれません。
選ばれたのは、義持の弟である義教です。
当時すでに出家して僧になっていましたが、還俗1して6代将軍となりました。
義教は日明貿易を復活させるという前向きな面もありましたが、鎌倉公方の足利持氏を討ち滅ぼすなど、強権的な政治を行ったことで有名です。
他にも有力守護を弾圧したため、「次は自分が殺されるかも」と思った赤松満祐という有力守護に暗殺されてしまいます。
これを嘉吉の変といいます。
義教のあとは、息子である義勝が7代将軍に就いたのですが、わずか9歳で亡くなってしまいました。
義勝の死因は赤痢だったというのが有力な説です。
義勝の後、8代将軍となったのが義政です。
応仁の乱が勃発
義政は日野富子という妻がいたのですが、子供がなかなかできませんでした。
そこで義政はすでに出家していた弟の義視を後継者にしようとします。
義視は「もし子供ができたら、争いになる」と断ったのですが、義政は「大丈夫。そのときはこどもを出家させるから」と押し切ってしまいました。
ところがその後、富子は子を授かります。
義尚といいます。
富子は自分の子を将軍にしようと、義政を説得しました。
義政は板挟み状態です。
その頃、管領家である畠山と斯波の家でも家督争いがあり、幕府の中では細川氏と山名氏が権力争いをしていました。
細川氏と山名氏が管領家や将軍家の跡目争いに介入したことで、1467年に応仁の乱が勃発します。
「ひとよむなしき応仁の乱」で覚えましょう。
戦が始まった当時の対立関係を表にしておきます。
| 西軍 | 東軍 | |
|---|---|---|
| 将軍家の跡継ぎ争い | 義尚(義政の子)・日野富子 | 義視(義政の弟) |
| 幕府内の権力争い | 山名宗全2 | 細川勝元 |
| 畠山家の家督争い | 畠山義就 | 畠山正長 |
| 斯波家の家督争い | 斯波義廉 | 斯波義敏 |
| 有力守護大名 | 大内・一色・土岐・六角 | 赤松・京極・武田 |
有力守護の間でも対立があったことをイメージしてもらうために、畠山や斯波の対立構造も書いていますが、チェックするのは太字の人物だけでOKです。
応仁の乱は11年間続き、結局勝敗がつかないまま終わりました。
京都は焼け野原になり、将軍家の権威は失墜し、守護大名たちが地元で自分たちの領土を守るために争う時代に入っていきます。
戦国大名の登場
室町幕府は当初から「守護が非常に強い権限を持っている」という特徴があったのを覚えていますか。
※忘れてしまった方は【第28回】南北朝と室町幕府をもう一度見てください。
鎌倉幕府を支配した北条家に比べると、室町幕府における足利家はあまり領土はもっていませんでした。
応仁の乱後は京都周辺に少し領地があるくらい。
それ以外の領土は戦国大名とよばれる武将が支配を広げていきます。
戦国大名になったキャリアパスはいくつかに分かれますので、ここでは代表的な3つをご紹介します。
(1)守護大名がそのまま戦国大名になる
いうならばエリートコースです。
甲斐の武田、駿河の今川、薩摩の島津などが、このエリートコースで戦国大名になりました。
(2)守護代や国人から戦国大名へ
守護代とは京都で政治を行っている守護大名に代わり、現地で実際に政治を行う役職のことです。
越後の長尾3、尾張の織田4が守護代から、安芸の毛利が国人から戦国大名になりました。
つまり守護大名がボス(知事のような位置づけ)で、守護代は部下(副知事のような位置づけ)にあたります。

このように家来が主人にとってかわることを下剋上といいます。
(3)その他大勢から戦国大名に
これも下剋上コースですが、もっとすごいドリームコースです。
何らかのポジションについていたわけではなく、いわばゼロからスタートして戦国大名になりました。
有名どころでは美濃の斎藤道三ですね。
油商人から成りあがったと言われています。
小田原の北条早雲も素浪人から一国一城の主にまでなったと言われていましたが、最近ではそれなりの役職に就いていたという説が有力です。
戦国大名の支配
戦国大名は幕府の力に頼ることなく、自分たちで領地を統治しようとしました。
城をつくり、その近くに家臣や商工業者を住まわせます。
いわゆる城下町です。
支配地域においては、農業用水路や鉱山の開発などを行いましたが、特に鉄砲などの物資の生産や調達は戦国大名にとって重要でした。
座や関所の廃止し、活発な商取引を推進しました。
さらに戦国大名は独自の分国法を定めます。
家臣同士の争いを、お互いの武力で解決するのを防ぎ、領主による裁判にゆだねる「喧嘩両成敗」の考え方は、分国法にみられる新しい特徴です。
チェックテスト
いよいよ歴史分野で最も人気の高い戦国時代に入ってきました。
戦国時代に詳しい人にとっては「意外と深く勉強しない単元なんだな」って、感じることがよくあるんですよね。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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