【中学歴史・第36回】鉄砲とキリスト教の伝来

中学歴史

中世のヨーロッパでは、イスラム勢力の圧力に対抗して十字軍の遠征が行われました。

その結果、人々の視野が広がり、ルネサンス宗教改革、そして大航海時代へと時代が動いていきました。

そしていよいよ、日本にもその大きな波が押し寄せてきます。

鉄砲が伝来

1543年、中国の倭寇である王直おうちょくら船が、鹿児島の種子島たねがしまに漂着しました。

その船にはポルトガル人がのっており、鉄砲(火縄銃ひなわじゅうを持っていたのです。

鉄砲の試し打ちを見て、その威力に驚いた領主の種子島時堯たねがしまときたかは、大金を出して2丁を購入しました。

そして地元の刀鍛冶かたなかじたちに、その製造方法を研究させたのです。

数年後には、大阪のさかいや近江(滋賀)の国友くにともなどで、鉄砲の大量生産が行われるようになりました。

鉄砲が与えた影響

鉄砲が戦国大名に広がったことで、これまでの戦い方や武具、城の作り方にも大きな変化がおこりました。

戦い方の変化

鉄砲は弓矢よりも習得が容易で扱いやすいため、農民出身の足軽あしがるに鉄砲を持たせるようになりました。

また、リロード(弾込め)に時間がかかる鉄砲隊を守るために、長い槍を持った足軽を配置するようにもなりました。

これまでの「個人の武勇」に頼る戦い方から、訓練された足軽による集団戦法へと変化したのです。

武具の変化

武士が出現した平安後期から鎌倉の武士は、主に大鎧おおよろいと呼ばれる甲冑かっちゅうを身につけていました。

大鎧の特徴は「おどし」です。

威とは、小さな札のような板状の革や鉄をいくつも結び合わせたものです。

鎌倉武士の両肩や腰回りにつけているのが威です。

これは馬に乗って弓矢や刀で戦うのに適していました。

一方、戦国時代になると当世具足とうせいぐそくと呼ばれる甲冑に変わります。

鉄砲の弾を跳ね返すため、胴の部分などを一枚の頑丈な鉄板で守る構造が主流になったのです。

城の変化

鉄砲が用いられるようになったことで、山の上につくられる山城やまじろから、平野部や小高い丘の上につくられる平城ひらじろ平山城ひらやまじろと変わりました。

山城は守るには適していますが、物資の搬入や人の行き来が不便です。

石垣を高く積み、壁を燃えにくい土壁に変え、壁には鉄砲を撃つための穴「狭間さま」が作られました。

これにより、防御力を高めつつ、物資の搬入や城下町の形成にも便利な構造へと進化したのです。

キリスト教の伝来

【第34回】ルネサンスと宗教改革でもふれたように、カトリック教会はプロテスタントに対抗すべく、アジアなど海外への布教に力を入れていました。

イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、マレーシアのマラッカで、アンジロー(ヤジロウ)という日本人に出会います。

彼から日本の様子を聞いたザビエルは、日本での布教を決心します

1549年、ザビエルはアンジローらと共に鹿児島に上陸しました。

その後、平戸(長崎)、山口、京都などを訪問し、天皇や将軍、各地の大名に布教の許可を求めました。

ザビエル自身は2年ほどで日本を去りましたが、後を継いだ宣教師たちの活動により、キリスト教の信者(キリシタン)は急速に増えていきました。

キリスト教が広まった理由とは

ザビエルの来日から50年ほどで、キリシタンは30万人を超えたといわれています。

キリスト教はなぜ広まったのでしょうか。

最も大きな理由は、戦国大名たちがキリシタンになったからです。

これをキリシタン大名といいます。

領主がキリシタンになったことで、そこの領民もキリシタンになるため、一気に数を増やすことができました。

最初にキリシタンになった大名は大村純忠おおむらすみただで、ついで大友宗麟おおともそうりん有馬晴信ありまはるのぶらが続きます。

ではなぜ彼らはキリスト教を受けいれたのでしょうか。

その主な目的は貿易でした。

南蛮貿易とキリスト教はセット

最初に日本にやってきたのはポルトガル人でしたが、少し遅れてスペイン人も日本にやってくるようになりました。

日本人は彼らを南蛮人なんばんじんと呼びました。

当時、中国の明とは勘合貿易がとだえ、正式な貿易ができない状態にありました。

南蛮人はそこに目をつけ、中国で生糸きいと絹織物きぬおりものを買いつけ、日本で売る中継貿易なかつぎぼうえきを行ったのです。

日本からは国内で大量に生産されていたぎんや刀剣、漆器などが持ち出されました。

この他にもヨーロッパからは鉄砲火薬、ガラス製品、時計など、東南アジアからは香辛料こうしんりょう香木こうぼくなどが輸入されました。

この南蛮人との貿易を、南蛮貿易なんばんぼうえきといいます。

南蛮人は、布教を許した大名の港に優先的に入港したため、大名たちは最新の鉄砲や火薬を手に入れるために、キリスト教を保護したのです。

少年4人をローマへ派遣

1582年、大村、有馬、大友の3大名は、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノの勧めで、4人の少年(伊東いとうマンショ、千々和ちぢわミゲル、中浦なかうらジュリアン、はらマルチノ)をローマに送りました。

これを天正遣欧使節てんしょうけんおうしせつといいます。

船旅は過酷で、嵐や船酔いに悩まされながらも、ローマに到着し、教皇グレゴリウス13世にも謁見することができました。

アジアからやってきたキリスト教徒の少年たちに、ヨーロッパの人々は驚き、各地で大歓迎を受けます。

しかし、1590年に彼らが帰国したときは、キリスト教徒にとって厳しい時代へと変わりつつあったのです。

チェックテスト

キリスト教は安土桃山時代から江戸時代にかけて、保護から禁止へと変わっていきます。

そのあたりはまた次回以降に詳しく学んでいきましょう。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

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