【中学歴史・第45回】三都の繁栄と街道の発展

中学歴史

江戸時代、日本は世界でも珍しいほど経済が発展した時代でした。

その中心にあったのが「三都さんと」と呼ばれる3つの巨大都市と、それらをつなぐ交通網です。

今回は、江戸時代の日本がどのようにして「モノとカネ」を動かしていたのかを、ひも解いていきましょう。

三都の役割:江戸・大坂・京都の個性

江戸時代には、それぞれ異なる役割を持った3つの大きな都市が発展しました。

これらをまとめて三都さんとと呼びます。

まず江戸は、幕府がある「将軍のおひざもと」として栄えました。

参勤交代さんきんこうたいで全国から武士が集まったため、18世紀には人口が約100万人を超える、当時としては世界最大級の都市になったんです。

一方、大坂(人口は約35万人)は「天下の台所だいどころ」と呼ばれました。

全国の年貢米や特産物が集まる物流の拠点だったからです。

各藩は自慢の産物を売るために蔵屋敷くらやしきを置き、そこでの取引を仕切る蔵元くらもとたちが活躍しました。

全国各地の藩は、この大坂で蔵元を通じて米を現金に換えていたわけです。

そして、かつての都である京都(人口は約40万人)は、伝統的な学問文化の中心地。

寺社も大変多く、宗教色の強い都市でもありました。

「江戸時代の農業と産業」でもみたように、高級絹織物の西陣織にしじんおりなど、質の高い手工業が発達し、今でいう「ブランド品」の産地として知られていました。

お金と商売の進化:両替商と新しい販売スタイル

これだけ街が大きくなると、商売の仕方も変わります。

まず、幕府は金座きんざ銀座ぎんざを設けて貨幣かへいをつくらせ、全国の通貨を統一しようとしました。

しかし、当時は地域によって金貨・銀貨・銭貨せんかの価値がバラバラ。

そこで、通貨を交換する両替りょうがえという仕事が重要になります。

三井家みついけ鴻池家こうのいけけといった豪商たちは、両替商として大きな力を持ちました。

三井家(越後屋えちごや)はさらに、それまでの「ツケ払い」ではなく、「現金かけねなし」で「正札しょうふだ(定価)」販売を行うという、当時としては画期的な商法を生み出し、庶民の間で大流行しました。1

また、商売を安定させるために、幕府の許可を得て営業を独占する株仲間かぶなかまという組織も作られました。

ちなみに、各藩が独自に発行する藩札はんさつも流通し、日本の経済はどんどん複雑で高度なものになっていったのです。

五街道と宿場の風景:人は陸路で動く

モノや人をスムーズに運ぶため、幕府は江戸を中心に五街道ごかいどう東海道とうかいどう中山道なかせんどう奥州道中おうしゅうどうちゅう日光道中にっこうどうちゅう甲州道中こうしゅうどうちゅう)を整備しました。2

街道には約4km(1里)ごとに一里塚いちりづかが置かれ、旅の目安となりました。

長野県塩尻市にある平出一里塚。街道の両脇に対になるようにつくられ、塚の上には松などの木をが植えられてました

また、幕府が目を光らせるための関所せきしょ3や、旅人が泊まる宿場しゅくばも発展。

宿場には、大名が泊まる豪華な本陣ほんじん脇本陣わきほんじんや、一般人が泊まる旅籠はたご木賃宿きちんやどが立ち並びました。4

幕府の命令を伝える飛脚ひきゃくが街道を駆け抜け、寺社の周りには門前町もんぜんまちができて賑わいを見せました。

こうして、日本中の道が江戸へと繋がっていったのです。

入り鉄砲に出女いりでっぽうにでおんな」って?
古代(壬申の乱のころなど)は、関所は軍事的な意味合いがありましたが、中世になると、通行税を取るための場所と変わります。そして近世(江戸時代)になると、江戸に武器を持ち込ませること(入り鉄砲)と、人質としている諸大名の妻が江戸から出ること(出女)を監視するようになりました。時代によって、関所の役割が変わっているんですね。

海運の黄金時代:河村瑞賢と廻船の活躍

重い荷物を大量に運ぶには、馬よりも船が便利です。

そこで発達したのが海運かいうんです。

日用品を運ぶ菱垣廻船ひがきかいせんや、お酒を運ぶ樽廻船たるかいせんが大坂と江戸を結ぶルートである南海路なんかいろを頻繁に行き来しました。5

さらに17世紀後半、河村瑞賢かわむらずいけんが、東北の米を安全に江戸や大坂へ運ぶルートを整備します。

日本海側から下関を通って大坂へ向かう西廻り航路にしまわりこうろと、太平洋側を通って江戸へ向かう東廻り航路ひがしまわりこうろです。

西廻り航路では、酒田さかた(山形県)などの寄港地で商売をしながら進む北前船きたまえぶねが活躍し、全国の文化を各地へ広める役割も果たしました。

海運については「どの海上ルートで、どの船が使われていたのか」をしっかりチェックしましょう!

幕府が街道や航路を整備した目的は?
三都を拠点に年貢や商品を効率よく流通させるためです。将軍のおひざもとである江戸への物資補給に加え、天下の台所である大坂へ各地の年貢米を集め、さらに京都で生産される西陣織などの高級な手工業品を全国へ届ける必要がありました。これらの都市を陸路と海路で結ぶことで、幕府や諸藩は財政を安定させ、日本全体の経済と文化を活性化させる狙いがあったのです。

チェックテスト

前回の農業などもそうですが、こうした経済に関する事柄を苦手とする人は多いです。

だからこそ何度も復習して、得意単元にすれば、テストで差がつきますよ!

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 当時は値段交渉があることを見越して、予め価格は高めに設定していました。また、その場ではツケにしておいて後日支払いを行っていました。 ↩︎
  2. 五街道の支線である脇街道わきかいどう伊勢路いせじ中国路ちゅうごくじなど)もつくられました。 ↩︎
  3. 関所の有名どころでは、東海道の箱根はこね新居あらい、中山道の碓氷うすい、甲州道中の小仏こぼとけなどがあります。 ↩︎
  4. 旅籠、もしくは旅籠屋はたごや木賃宿きちんやどはどちらも庶民が泊まる施設ですが、サービス内容が違います。旅籠は食事有り、木賃宿は食事なしで自分で食材を持ち込みます。調理するときに燃やす「木」の代金(賃)のみ払うため、そのようによばれました。 ↩︎
  5. 樽廻船の方がコスト、スピードともに優れていたため、時代が進むにつれて菱垣廻船は勢いを失っていきました。 ↩︎

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