幕府が倒れて、いよいよ新しい時代が始まります。
それまでと比べて、「何が」「どう変わる」のかを、ひとつずつ確認していきましょう。
新しい政治の方針、五箇条の御誓文
1867年(慶応3年10月)に大政奉還、(慶応3年)12月に王政復古の大号令が行われて、新しい政府が樹立しました。1
この「新政府」がまず行ったのが、1868年の五箇条の御誓文を発表することです。
京都の御所で、天皇が臣下を従えて「神々に誓う」という形で行われました。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」ではじまる5つの文章には、「会議でものごとを決める」「国を開いて、新しい知識を取り入れる」「天皇中心の国家をつくる」といったことが盛り込まれました。
「徳川の世の中が終わって、これからどうなるの!?」という不安だらけの雰囲気(まだ戊辰戦争もやっている状態)でしたので、なるべく早い段階でざっくりとした方針を伝えて、安心感を与えようとしたんですね。
庶民に対しては、五榜の掲示
五箇条の御誓文は1868年4月6日(慶応4年3月14日)に発表したのですが、その翌日の4月7日に、こんどは国民全体に向けて、五榜の掲示が発表されました。
5つの高札を立てて、庶民が守らないといけないことや、禁止事項などを知らせたんです。
「集団で訴えをおこしたり、キリスト教を信仰したりすることは引き続き禁じますよ」ということで、基本的には江戸時代のきまりと同じでした。
ただ、キリスト教の禁止については欧米からの強い反発がありました。
また、この「高札でみんなに知らせる」というスタイルも古くなっていたこともあり、1873年には五榜の掲示は全て撤去されることになります。
元号を明治に
1868年10月(慶応4年9月)、天皇の即位にあわせて元号を明治としました。
明治の元号は有名なのですでにご存じだと思いますが、そのひとつ前の年号もテストで狙われることがあるので、ぜひ覚えておきましょう(慶応です)。
同じタイミングで、一世一元の制も定めます。
天皇一代に対して、ひとつの元号という、現在のスタイルになったのです。
それまでは、天皇が代わらなくても、気分を一新するために元号を変えることはたびたびありました。
さらに江戸を東京と名前を変えて、明治天皇も京都から東京に移られました。
この時期、何もかも新しくするという意味の「御一新」という言葉を新政府が使ったことで、一般的に広く用いられるようになりました。
現在ではこの幕末から明治時代初期にかけての変革のことを、明治維新と呼んでいます。
藩をやめて、県を置く
江戸時代は、徳川家が君臨しつつも、地方のことは各藩に任せる幕藩体制でした。
つまり、小さな国が集まった「連邦国家」だったわけです。
新政府はこの「連邦国家」の状態をあらためて、天皇を中心とした「中央集権国家」をつくろうとしました。
それぞれの地方も、中央の政府が直接支配する形を取りたかったのです。
そこで、新政府は1869年に藩主に対して、領地(藩)と人民(籍)を返還させようと考えます。
これを版籍奉還といいます。
率先して薩摩、長州、土佐、肥前の4つの藩の藩主が版籍奉還を行いました。
各藩の藩主は知藩事となり、今でいうところの知事のような存在に変わりました。
形としては、なんとなく中央集権国家に近づいたのですが、実質的にはこれまで通りの藩の雰囲気が残ってしまいました。
そこで、1871年に藩を廃し、あらたに県を置く廃藩置県を断行。
知藩事を辞めさせ、代わりに中央政府から県令を送り込みました。
廃藩置県はかなり思い切った政策だったので、各藩から反発があることを予想し、新政府は薩摩・長州・土佐の3藩からなる御親兵を組織して、従わない場合は武力で抑え込むつもりでした。
しかし、一部の藩では反発があったものの、多くの藩がおとなしく従う結果となります。
その理由としては、多くの藩が多額の借金をかかえており、藩の政治が立ち行かなくなっていたことがあります。
「中央政府に借金の肩代わりをしてもらえるなら…」という状況だったようです。
また、地方の藩にも「新しい日本は中央集権国家で、強くならねばいけない」という考えを持った人がいた、ということもあったようです。
藩閥政府を形成
版籍奉還や廃藩置県を通して、新政府は「中央」の仕組みを整えていきます。
まずトップを太政官とし、その太政官を左院、正院、右院の3つにわけます。
このうち、実質的に国を動かすのは、正院です。
正院は太政大臣、右大臣、左大臣、参議を置いて、ここに重要人物が名をつらねます。
廃藩置県が行われたころのメンバーは以下の通りです。
- 太政大臣…三条実美(公家)
- 左大臣…空席
- 右大臣…岩倉具視(公家)
- 参議…西郷隆盛(薩摩)、木戸孝允(長州)、板垣退助(土佐)、大隈重信(肥前)
参議は薩長土肥の出身者で固められているのがよくわかると思います。
一部の公家(三条実美・岩倉具視)や4藩の出身者で固められたこの政府のことを藩閥政府、その政治を藩閥政治といいます。
四民平等へ
新政府は古い封建制度も一新しようとしました。
版籍奉還によって、藩主と藩士の主従関係はなくなったのを機に、公家と大名と華族、武士を士族、その他はすべて平民という位置づけに変えました。
そして、国民を天皇の下にひとつにまとめるため、皇族以外はすべて平等であるとしました。
武士(士)、百姓(農)、町人(工商)の4つの身分を廃止して、同じ身分にするということから四民平等ということもあります。
四民平等によって、士族と平民が結婚したり、苗字をつけたり、職業や住居を自由に決めることができるようになりました。
また1871年には解放令(賤称廃止令)が出され、えた・非人とされていた人も平民と同じであるとして、差別を撤廃した形となりました。
しかし、現実的にはその後も差別は残り続けます。
また、四民平等となったことで、非差別身分の人の生業であった皮革業に、新規参入業者があらわれ、かえって生活が苦しくなった面もありました。
【一問一答】チェックテスト(問題・解答)
「徳川の世は古い。新しく変えるんだ」という、新政府側のすごい意気込みを感じますね。
木戸や西郷たちの新国家建設は、はたしてうまくいくのでしょうか。
そのあたりはまた次回以降で。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!
- 少しややこしいのですが、慶応3年は現在の西暦でいうと「1867年2月5日~1868年1月24日」の期間となります。つまり慶応3年の終わり頃(12月頃)は西暦でいうと1868年になってしまいます。王政復古の大号令は旧暦でいうなら慶応3年12月9日、現在の暦でいうなら1868年1月3日となるのですが、教科書ではおそらく1867年でまとめられてしまっていると思います。 ↩︎



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