前回は壬申の乱に勝った天武天皇が国家建設の途中で亡くなったところまででした。
今回は後を継いだ持統天皇らが進めた新しい国づくりの話です。
大宝律令が完成
大化の改新で活躍した中臣鎌足には、藤原不比等という息子がいました。
「親子やのに、名前が違うやん」と思ったかもしれませんが、鎌足は亡くなる直前に、その功績を評価され、天智天皇から藤原の姓を賜っていたのです。
不比等は「等しく比べるものがいない」というほど、非常に優秀でした。
天智天皇の側近だった鎌足の息子なので、壬申の乱の頃は大友サイドよりで、あまりいい風が吹いていませんでした。
しかし、天皇が持統天皇になったあたりから活躍しはじめます。
最初の大仕事が、天武天皇の子である刑部親王と一緒に作り上げた大宝律令でした。
大宝律令の大宝は元号です。完成した701年は大宝元年でした。
律令とは、刑罰の決まりである「律」と、行政組織や役人に関するルールや税の決まりを定めた「令」のことです。
簡単に言うと「六法全書を作った」感じですかね。
実際、かなり細かいことまで決められていたようです。
その中身を見てきましょう。
- 二官八省の役所を設けた
二官とは太政官と神祇官です。八省は中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省です。「なかつかさ、しきぶ、じぶ、みんぶ、ひょうぶ、ぎょうぶ、おおくら、くない」と何度も暗唱して覚えましょう。八省がスラスラ言えるとかっこいいですね! - 全国を畿内と七道に分けた
畿内は五畿ともいいます。大和(奈良)、山城(京都)、河内(大阪東部)、摂津(大阪北部と兵庫)、和泉(大阪西部)の5つの国のことです。
七道は東山道(中部+東北)、東海道(関東+東海)、北陸道(北陸+新潟)、山陰道(中国の北側)、山陽道(中国の瀬戸内側)、南海道(四国+和歌山)、西海道(九州)です。
全国を結ぶ官道が整備されて、約16㎞ごとに駅家が設けられました。役人が地方に出張する際に利用されました。 - 国、郡、里(郷)に分けた
律令制によって分かれた国なので、律令国と言ったりします。大宝律令で定められた律令国は58国3島ありました。下野国(栃木)や薩摩国(鹿児西部)という言い方ですね。この国ごとに国府をおき、都から国司を派遣しました。同様に、郡には郡司をおきましたが、この役職は地元の豪族を任命したようです。 - 大宰府をおいた
唐や新羅に近い北九州には大宰府をおきました。大宰の漢字ですが、現在の太宰府市の表記と少し違いますので、ちょっとご注意を。大宰府は西海道を統治する役割を担っていたので、かなり重要な役所であったことがうかがえます。
また、東北には蝦夷対策として多賀城をおきました。現在の仙台市のすぐ隣です。蝦夷というのは、蘇我蝦夷のことではなく、当時東北に住んでいて、大和朝廷に従わない人々を指しました。
旧国名や役所の名前などがたくさん出てきましたが、最初は無理に全部覚えなくても大丈夫です。
※旧国名や役所名だけのプリントも別途作成する予定です。
平城京への遷都も実現
天武天皇は「天皇が代替わりしても、変わらない都」を願い、藤原京を造営させました。
残念ながら、天武天皇は完成を見ずになくなったのですが、持統天皇から3代にわたって、この藤原京に住み、政治を行いました。
この藤原京は日本で初めての本格的な条坊制の(通りが碁盤の目状になっている)都でしたが、唐の都の長安をモデルとした都を新たに作ることになりました。
それが平城京です。
(平城京と藤原京、どこが違うか、資料集を見て確認してみましょう)
平城京に遷都したのが、710年。
ここから京都に遷都する794年までを奈良時代といいます。
貨幣も発行
律令制度や都づくりなど、この時代はとにかく「唐にならおう!」という空気に満ちていました。
唐にならった他の事業として、貨幣の発行もありました。
武蔵国(埼玉県秩父市)で銅が算出されたことを記念し、元号を和銅とし、記念貨幣が発行されたのです。
それを和同開珎といいます。
読み方は「わどうかいほう」とする説と、「わどうかいちん」とする説があり、まだ決着がついていません。
しかし、あまり流通はしなかったようです。
庶民はまだまだ物々交換がメインで、貨幣を使う習慣がなかったようですね。
そもそも銅が出たといって、元号を変えるくらい貴重な資源ですから、造幣の方も進まなかったのかもしれません。
チェックテスト
奈良の平城京跡は京都の平安京跡と違い、大極殿などを見学することができます。
原っぱが広がって気持ちのいい公園みたいなところなので、機会があればぜひ立ち寄ってみてください。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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