【中学歴史・第38回】兵農分離と対外政策

中学歴史

今回は秀吉の政策についてです。

16世紀末、秀吉が「農民」と「海外」に対してどのようなアクションを起こしたのか、その狙いに注目しましょう。

太閤検地:土地のものさしを統一する

秀吉といえば検地を行ったことで有名ですが、検地は秀吉以前からも行われていました。

それまでの検地は指出検地さしだしけんちといって自己申告に基づくものでしたが、秀吉は直属の部下を検地奉行けんちぶぎょうとして、直接かつ統一した基準で検地を行った点に違いがあります1

この秀吉が行った検地のことを太閤検地たいこうけんち2といいます。

秀吉は天下を統一する1590年の前から、新しく支配するようになった土地で実施しました。

検地の結果、土地の大きさ、土地の等級(上・中・下・下々)を検地帳に記載し、生産できる米の量を石高で表すようにしました。

これを石高制といいます。

太閤検地が行われるまでは、荘園制が残っており、土地の権利関係は複雑でした。

「この土地は誰のもので、誰が耕すか」を明確にした(一地一作人いっちいっさくにんの原則)という意味では、農民は「権利を保障してもらった」と同時に、その土地における納税の義務から逃れることができなくなったともいえます。

また、各大名は石高によって軍役ぐんやくなどを負うようにもなりました。

ものさしやます、単位も統一

秀吉は、測量に使う「ものさし」や、お米の量を測る「ます」の大きさも全国で統一しました。

それまでは地域ごとにバラバラだった基準を「きょうます3」などに固定したことで、全国の生産力を正確に比べることが可能になったのです。

お米の量を測る「石高こくだか」

秀吉は「京ます」という「ます」を全国共通の基準にしました。これによって、全国の生産力をこくという単位で表すようになりました。

  • 1升いっしょう:約1.5kg(お米約10合分)
  • 1石いっこく:100升分 = 約150kg

「1石」は、当時の大人1人が1年間に食べるお米の量とほぼ同じです。つまり「100万石の大名」といえば、「100万人を1年間養えるだけのお米がとれる領地を持っている」という意味になります。

面積を測る単位

秀吉は「検地尺けんちじゃく」というものさしを使い、面積の単位も次のように整理しました。

  • 1歩いちぶ:約3.3平方メートル(畳2畳分くらい)
  • 1反いったん(段):300歩4 = 約990平方メートル(約10アール)
    ※1反(約1,000平方メートル)は、だいたい25mプールの4つ分くらいの広さです。

秀吉は「標準的な1段の田んぼからは、1石5斗(約225kg)のお米がとれる」といった具合に、土地のランクごとに収穫量の目安(石盛こくもり5)も細かく決めました。

刀狩:武士と農民をはっきり分ける

太閤検地から少し遅れて行われたのが、刀狩かたながりです(1588年)。

農民や寺社から刀、槍、弓、鉄砲を取り上げたのです。

特に注目すべきは農民の方です。

当時の農民は、「半農半士」という人も多かったのですが、それを「あなたは農民。もう武士のように戦う必要はありません」としたわけです。

刀狩には2つの目的があったといわれています。

ひとつは農民としての身分を固定し、農業の生産力を安定させるためです。

もうひとつは、武器を取り上げることで、一揆をおこさせないようにするためです。

さらにその後、秀吉は武士の奉公人が百姓になることや、百姓が商人になることも禁止したため、身分の固定化(兵農分離へいのうぶんり6が進みました。

この兵農分離は江戸時代にも引き継がれていきます。

文禄・慶長の役

秀吉の対外政策を考える上では、ヨーロッパ、東南アジア、東アジアの3つに分けるとわかりやすいです。

ヨーロッパ(主にポルトガルとスペイン)に対しては、「貿易は推進。ただしキリスト教は禁止」と貿易と宗教を分けて考えているところがポイントになります。

東南アジアに対しては、国内の商人に積極的に貿易することを奨励しつつ、フィリピンのルソンや台湾の高山国には服属を求めています。

対外政策で最も重要ともいえるのが、対中国と朝鮮です。

秀吉は明の征服を狙い、朝鮮に対して入貢と出兵した際の道案内を求めました。

しかし、朝鮮が拒否したため、秀吉は朝鮮に約15万の大軍を送り込みます(1592年/文禄ぶんろくえき)。

朝鮮半島に上陸した日本軍はすぐに首都の漢城(現在のソウル)を占領します。

しかし、李舜臣りしゅんしん7が率いる水軍、現地の義兵、明の援軍による反撃にあい、苦戦が続くようになりました。

そこで、小西行長こにしゆきながが中心となって、明との講和交渉を進め、一時は停戦状態になりましたが、結局交渉は決裂。

1597年、秀吉は2回目の出兵を行います(慶長けいちょうの役)。

慶長の役は文禄の役よりも苦戦。

秀吉が病没したことで兵を引き上げました。

2回にわたる戦いの中で、朝鮮の土地は荒れ果てました。

また、日本の武将が武功のために、朝鮮の人の鼻をそいで持って帰った、という悲惨な出来事もありました。

日本に送られた鼻は京都の方広寺の門前に埋められました。現在でも耳塚(本当は鼻塚)として残っています

朝鮮人の中には日本に連れて行かれた人もいて、その人たちによって陶磁器の優れた技術がもたらされたことで、有田焼ありたやき(佐賀県)、薩摩焼さつまやき(鹿児島県)、萩焼はぎやき(山口県)などの祖となりました。

日本側も人的、物的に大きな痛手を受けると同時に、大名の間で対立を生みだしました。

文禄・慶長の役がなければ、豊臣政権はもう少し長持ちしていたかもしれませんね。

秀吉が明を征服しよう思った理由について

ひとつは、国内の戦乱が終わり「新しく与える領土がなくなったから」といわれています。

他にも「キリスト教勢力に対抗するために、東アジアにおいて日本を頂点とする新しい体制をつくろうとした」とか、「秀吉の征服欲が引き起こした」とか、「跡継ぎ候補だった鶴松を失った悲しみからくる狂気から」といった説があります。

チェックテスト

文禄・慶長の役について、最近の教科書では「朝鮮侵略」という表記になっていますが、かつては「朝鮮出兵」という表記もありました。

なぜこのような表記をしているのか(変わったのか)や、中国や韓国の歴史教育ではどのように扱われているのかを調べると、歴史学習がもっと奥深いものになると思います。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 秀吉の検地も当初は指出検地でした。 ↩︎
  2. 太閤は、前に関白を務めていた人に対する呼称です。 ↩︎
  3. 延久の荘園整理令のときに、宣旨桝が使われ始めましたが、室町時代になると各地でバラバラのますを使うようになっていました。 ↩︎
  4. 戦国時代までは1段=360歩でした。 ↩︎
  5. 1段あたりの生産力。 ↩︎
  6. 織田信長は豊富な資金をもとに、兵を専門とする部隊を持っていましたが、当時は農業と兼務する人が多かったようです。「田植えや就活の時期は戦をしない」ということが当たり前のように起こりました。 ↩︎
  7. 韓国の100ウォン硬貨の図案に用いられています。 ↩︎

コメント