【中学歴史・第40回】江戸幕府の成立

中学歴史

豊臣秀吉が1598年、慶長の役の最中に亡くなると、徳川家康とくがわいえやすの存在感が増しました。

しかし、すぐに家康の時代になったわけではありませんでした。

どのような経緯で幕府が成立し、またどのような体制をつくったのかを見ていきます。

江戸幕府の成立:戦乱の終結と天下分け目の決戦

関ヶ原の戦い(1600年)

秀吉が亡くなったあと、豊臣政権内では、実力者の家康を警戒する勢力と、家康に従う勢力の対立が深まりました。

反家康派の筆頭は、豊臣家への忠義を貫こうとした石田三成いしだみつなり1です。

三成は家康をつぶすために西日本の有力武将に声をかけ、挙兵しました。

これが1600年に起きた関ヶ原せきがはらの戦い2です。

この戦いは、全国の大名が東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれて戦った「天下分け目の決戦」でした。

結果は、小早川秀秋こばやかわひであきの裏切りにより、東軍が大勝。

家康の実力は決定的なものとなり、政治の実権を握ることになりました(三成は京都で処刑されました)。

征夷大将軍への就任(1603年)

1603年、家康は後陽成天皇から征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命され、江戸えど(東京都)に幕府を開きました。

なぜ「将軍」という称号が必要だったのか。

それは、単なる有力者ではなく、天皇から日本全体の軍事・警察権を委ねられた「正当な統治者」であることを内外に示すためでした。

しかし、家康は2年後には、その将軍職を子の徳川秀忠ひでただに譲ります。

征夷大将軍の座は徳川が世襲することを明確にする意図があったためです。

豊臣氏の滅亡:大坂冬の陣・夏の陣(1614〜1615年)

一方、幕府を開いた後も、大坂城には秀吉の子・豊臣秀頼ひでよりがおり、依然として幕府を脅かす存在でした。

すでに高齢になっていた家康は、将来の不安を完全に取り除くため、大坂冬の陣(1614年11月下旬~1月下旬)・夏の陣(1615年5月末~6月初)を引き起こして豊臣氏を滅ぼしました(秀頼は自害)。

徳川氏に逆らう大きな勢力は日本からいなくなり、名実ともに徳川の平和が始まりました。

幕藩体制の確立:大名と朝廷を支配するシステム

    江戸幕府の支配構造は、幕藩体制と呼ばれます。

    これは、幕府が全国を直接支配するのではなく、各地を「藩」に任せつつ、幕府がその頂点に立つという仕組みです。

    幕領と藩

    幕府が直接支配する土地を幕領ばくりょう、または直轄領ちょっかつりょうと呼びます。

    幕領は旗本領3なども加えると、全国の約4分の1を占めました。

    ここには江戸、大坂、長崎といった重要な都市や、佐渡金山(新潟県)、石見銀山(島根県)などの資源が含まれており、経済的な基盤となりました。

    一方、大名が支配する領地を「藩」と呼び、全国に200以上の藩が存在しました。

    藩の統治はその領主である大名だいみょう4に任されました。

    幕府の役職:老中と若年寄

    幕府を運営するために、組織図も整えられました。

    権力が集中しすぎることのないように、「組織」で動く仕組みを整えました。

    • 老中ろうじゅう:幕府の政治全般を担当する最高責任者(常設の役職)です。数名が交代で務めました。
    • 若年寄わかどしより:老中の補佐役で、主に将軍直属の家臣(旗本・御家人)を管理しました。

    このように、特定の個人に権力が集中しすぎないよう、合議制ごうぎせい(みんなで話し合って決める)や月番制つきばんせい(交代で担当する)がとられたのが幕府の特徴です。

    大名の統制:逆らわせないための知恵

    家康やその後の将軍たちは、大名たちが再び戦を起こさないよう、厳しいルールを作りました。

    武家諸法度

    1615年、2代将軍・秀忠の代に武家諸法度ぶけしょはっとが制定されました。

    これは大名が守るべき法律で、「勝手に城を修理してはいけない」「結婚には幕府の許可が必要」といった内容が含まれていました。

    軍事力を削ぎ、大名同士が結びつくのを防ぐのが目的です。

    参勤交代

    3代将軍・家光の代になると、武家諸法度に追加される形で参勤交代さんきんこうたいが制度化されました(1635年)。

    これは、大名が1年おきに江戸と自分の領地を行き来する義務です。

    参勤交代をなぜ行った?
    表向きの理由としては、将軍と大名の主従関係を確認するためです。裏の理由は、江戸までの莫大な旅費と、江戸での生活費を負担させることで、大名の経済力を削り、戦争をする余裕をなくさせるためです。さらに妻や子供を「人質」として江戸に住まわせることで、裏切りを封じる、ということもやっていました。

    親藩・譜代・外様

    幕府は大名をその「信頼度」によって3つに分け、配置を工夫しました。

    1. 親藩しんぱん:徳川氏の親戚。尾張(愛知県)、紀伊(和歌山県)、水戸(茨城県)のいわゆる御三家の3藩など。
    2. 譜代大名ふだいだいみょう:関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えていた家臣。酒井家、本多家、井伊家、榊原家など。石高は小さいが、幕府の要職を任されました。江戸周辺や要所に配置されました。
    3. 外様大名とざまだいみょう:関ヶ原の戦い以降に従った大名。前田家、島津家、伊達家など。信頼度が低いため、江戸から遠い地方に配置されました。

    外様大名なぜ遠くに配置した?
    遠くに配置することで、本拠地である江戸を攻撃しにくくするためです。
    親藩と譜代大名の藩は、大坂・京都から東海地方に配置し、最も警戒しなければいけない西日本からの攻撃を阻止できるようになっていました。また各大名が配置された地図をよく見ると、九州や東北の玄関口にも親藩・譜代大名が配置されていることがわかります。
    さらによく見ると、前田家のような大きな藩の両隣にも親藩・譜代大名が配置されています。つまり進軍を阻止するためだけでなく、地方の大名を監視する狙いもあったわけです。

    ここで大名の統制について、おさえておきたいことをひとつ。

    親藩・譜代大名は、外様大名に比べると石高が比較的小さめでした。

    これは「外様大名と違って、幕府の要職には就けるけど、実質的な力を持たせない」「お金を持っていないから、幕府の要職に就かないとやっていけない状態にする」という、将軍家側の巧妙な統治方法でもあったんです。

    チェックテスト

    家康は鎌倉時代に書かれた歴史書『吾妻鑑あずまかがみ』を愛読していたそうです。

    これまでの統治者から学び、長続きする支配の仕組みをつくったのではないでしょうか。

    今日はここまで。

    アリーヴェデルチ!

    1. 豊臣政権の中枢を担った五奉行のひとり。 ↩︎
    2. 関ヶ原は現在の岐阜県にあります。 ↩︎
    3. 旗本とは、将軍直属の家臣で、将軍に謁見えっけんを許された武士のこと。簡単にいうと、将軍に会える武士。将軍への謁見のことを「お目見え」といいます。逆にお目見えを許されていない武士のことを御家人といいました。 ↩︎
    4. ここでいう大名とは、1万石以上の領地が与えられた藩を収めた領主のこと。 ↩︎

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