享保の改革はある程度うまくいったところもあったのですが、根本的な幕府の立て直しまではできませんでした。
「年貢(米)を増やすだけでは、うまくいかない」
そんな新しい考えをもった改革者が登場します。
田沼意次の政治:お金を回して幕府を救え!
田沼意次はもともと、のちに9代将軍となる家重の小姓からスタートして出世し、10代将軍の家治の時代になると、1767年に側用人に、1772年には老中に昇格します。1
家治は吉宗のように自ら先頭に立つタイプではなく、老中の田沼に幕政を任せました。
実権を握った田沼はこれまでの「農業重視」から「商業重視」へと、ガラッと方針を変えます。
それまでの「節約しろ!」ではなく「どんどん稼いで税を納めろ!」、「農民から米を」だけではなく「商人から現金を」というやり方に変えたわけです。
株仲間を広く公認
田沼は、商人たちの組合である株仲間を積極的に公認しました。
その見返りとして、運上や冥加といった営業税や上納金を幕府に納めさせ、潤沢な資金を得ようとしたのです。
専売制の実施
銅、真鍮、朝鮮人参は、銅座、真鍮座、人参座といった「座」をつくり、幕府が認めた座だけで販売できる専売制を実施しました。
販売を独占できるので、当然もうかります。
そのもうけに対して、税を徴収するようにしようというねらいです。
商人の資金で新田開発
田沼は「米」の方も忘れていません。
印旛沼や手賀沼(千葉県)の干拓による、新田開発にも着手します。
開発には費用がかかりますが、それを大阪の大商人に出させました。
長崎貿易の振興
江戸時代の日本は貿易によって、金・銀がどんどん海外に出ていっていました。
そこで田沼は長崎貿易で逆に銀を手に入れようとします。
銅や俵物(干しアワビやフカヒレなど)を輸出して、金・銀を受け取ろうという算段です。
蝦夷地の開発
俵物は中国で高級食材として大変重宝されましたが、その海産物は蝦夷地でとれます。
また広大な蝦夷の土地に、田畑や鉱山の開発の可能性を感じました。
田沼は蝦夷地開発に興味を持ち、最上徳内らを調査隊として派遣しました。
数々の積極的な施策を試みた田沼でしたが、負の面もありました。
あまりにもお金を重視したため、役人への「わいろ」が横行するようになり、「武士としての威厳が失われた」という批判が出たのです。
さらに運が悪いことに、1782年からは天明のききんがおこり、追い打ちをかけるように1783年に浅間山が大噴火します。
世の中は大混乱におちいり、各地で百姓一揆や打ちこわしが多発。
1786年に後ろだてとなってくれていた将軍の家治が亡くなると、田沼は失脚してしまいました。
松平定信と寛政の改革:理想に燃える「マジメ」な政治
田沼時代の「ゆるみ」を正そうと登場したのが、徳川吉宗の孫にあたる松平定信です。
彼はもともと白河藩の藩主でしたが、天明のききんの際にうまく切り抜けたことで、その手腕を評価されるようになります。
田沼が失脚したあと、旧田沼派と定信の老中就任を後押しするグループの間で、後継者争いがありました。
しかし、1787年に天明の打ちこわしという大規模な暴動が勃発したことにより旧田沼派が一掃され、定信が老中に就任します。
定信は寛政の改革をスタートさせ、とにかく「質素・倹約・マジメ」を徹底しました。
農業政策の見直し
定信が老中に就任したのは、天明のききんや打ちこわしという社会不安が広がっていた時期です。
まず諸藩に対し「ききんに備えて1万石につき50石の米を5年間蓄えるようにせよ」と命じました。
これを囲い米といいます。
また、ききんで農村から江戸に流れてきていた農民に、旅費を与えて故郷へ帰す旧里帰農令も出しました。
が、旧里帰農令の方は、あまり効果はなかったようです。
武士を救済
この時期「商人は富み、武士は困窮」という時代でした。
江戸には年貢米を現金にかえる札差という商人がいて、旗本や御家人にお金を貸していたんです。
旗本や御家人は借金に苦しんでいたため、定信は古い借金はチャラにする棄捐令を発動しました。
これから借金する人のために、低い利率の設定も行います。
鎌倉時代の徳政令のようなものだと、イメージするといいと思います。
社会不安の解消
ききんで江戸に出てきた人の中には、家を持たない人が多くいました。
こうした無宿人は江戸の治安を悪化させましたので、身元がわかるものは自分の国へ戻し、国に戻れず犯罪者でないものは、人足寄場に収容しました。
人足寄場というのは職業訓練ができる更生施設のようなものです。
江戸を流れる隅田川の河口にあった石川島につくられました。
この人足寄場で、手に職をつけてもらい、仕事を持たせようとしたのです。
学問や出版を統制
幕府は一貫して儒学の中でも特に朱子学を重視してきましたが、定信も「朱子学が正学」とし、湯島聖堂(のちの昌平坂学問所)2では朱子学以外の学問を禁止しました。
これが寛政異学の禁です。
また、定信は風紀を乱す本への出版統制も強めました。
この出版統制により、洒落本作家の山東京伝や出版元の蔦屋重三郎が処分されました。
こうしたあまりに厳しすぎる改革に、人々の不満が蓄積されます。
「白河の 清きに魚のすみかねて 元のにごりの 田沼恋しき」と皮肉をこめた狂歌がつくられたほどです。3
定信は、京の朝廷や11代将軍の家斉との対立もあって、在職6年あまりで身を引くことになりました。
ロシアの接近と北方探検:北からの招かれざる使者
この頃、日本に外国の足音が聞こえ始めます。特に北のロシアが日本との貿易を求めてやってきました。
1792年、ラクスマンが伊勢の漂流民である大黒屋光太夫を連れて根室に来航します。
ラクスマンの目的は通商でしたが、幕府はこれを拒否します。
1804年にはレザノフが長崎に現れ、再び通商を迫りました。
また幕府は拒否したのですが、その後レザノフは樺太や択捉を攻撃します。
これに驚いた幕府は、北方の防衛を固めるために探検家を派遣しました。
- 最上徳内:蝦夷地や千島列島を調査。農民出身でしたが、出世し、幕臣となりました。当時No.1の「蝦夷通」。
- 近藤重蔵:択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
- 間宮林蔵:樺太(サハリン)と大陸の間に海峡があることを発見し、樺太が島であることを確認しました。この海峡はのちに「間宮海峡」とよばれるようになります。
こうして、平和だった日本にも、いよいよ「外国との緊張感」という新しい時代の波が押し寄せ始めることになったのです。
大丈夫か、江戸幕府!
チェックテスト
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



コメント