江戸時代もだいぶ終わりが見えてきました。
今回は、19世紀に入って頻繁に現れるようになった外国船への幕府の対応や、江戸時代の三大改革の最後である天保の改革を取り扱います。
また、弱っていく幕府の力と反比例するかのように、力をつけていく外様大名たちもチェックしましょう!
幕府の力がさらに弱まった大御所時代
寛政の改革を行った松平定信が失脚したあと、政治の実権を握ったのは第11代将軍の徳川家斉です。
彼は将軍職を次の家慶にゆずったあとも大御所として権力を持ち続けました。
寛政の改革が終わった1793年から1841年に亡くなるまでを、大御所時代といいます。
ちなみに家斉の将軍在任期間50年は、15代将軍の中で最長です。
中学校の教科書にはあまり出てこない人ですが、期間だけでいうと三大改革の期間よりもずっと長いんですね。
忍び寄る外国船の影と「打払令」と「蛮社の獄」
寛政の改革期から大御所時代にかけて、日本の近海には欧米の船が頻繁に姿を見せるようになりました。
まずやってきたのは、ロシア。
これは【中学歴史・第48回】田沼政治と寛政の改革で解説したように、1792年にラクスマン、1804年にレザノフがやってきました。
その後、1808年にイギリスのフェートン号が長崎に侵入する事件が発生。
オランダ商館員を人質にとって、薪や食料などを要求しました。
その後フェートン号は出航し、日本側には実害はなかったのですが、幕府はこの事件に強い衝撃を受けます。
「これは危ない!」と危機感を強め、1825年に異国船打払令(無二念打払令)を出します。
「怪しい船が来たら、理由を問わず大砲で追い払え!」という、かなり強気な命令でした。
しかし、これが裏目に出ます。
1837年、日本人の漂流民を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号を、幕府はこの命令に従って攻撃してしまったのです(モリソン号事件)。
これに対し、「今の世界情勢を知らずに、むやみに追い払うのは危険だ」と声を上げたのが、渡辺崋山や高野長英といった蘭学者たちでした。
しかし、幕府は批判を許さず、彼らを厳しく処罰します(蛮社の獄)。
国内のパニック!大塩平八郎の乱
外からの圧力だけでなく、国内もボロボロでした。
天保のききんによって食べるものがなくなり、人々が苦しむ中、1837年に大事件が起きます。
元大阪町奉行所の与力1で、陽明学者でもあった大塩平八郎が、「苦しむ民を救え!」と大阪で反乱を起こしたのです(大塩平八郎の乱)。
反乱は半日ほどで鎮圧されてしまいますが、「身内」であるはずの役人が反乱を起こした事実は、幕府に大きなショックを与えました。
水野忠邦の挑戦「天保の改革」
「このままでは幕府が潰れる!」
そんな危機感の中で、1841年に老中の水野忠邦がスタートさせたのが天保の改革です。
水野が目指したのは、江戸時代の理想に戻ること。
まず、派手な生活を禁じる倹約令を出し、風俗や出版などを厳しく制限しました。
さらに、江戸に流入した農民を強制的に村へ帰す人返しの法を実施して、農村での生産人口を増やすとともに、都市部の貧困層を減らそうとします。
寛政の改革で行われた旧里帰農令と似ていますね。
また、物価を下げようとして、商人の独占組織である株仲間を解散させました。
しかし、これが逆に商品の流通を妨げ、物価上昇を招きました。
物価高騰は株仲間ではなく、流通構造の変化や幕府が行った貨幣発行に問題があったのです。
そんな中、隣の清(中国)がアヘン戦争でイギリスに大敗したニュースが届きます。
「大砲で追い払うなんて無理だ!」と悟った幕府は、打払令をゆるめ、遭難した船には燃料や水を与える薪水給与令を出して方針転換を余儀なくされました(1842年)。
忠邦の改革は、江戸や大阪周辺の土地を幕府の直轄地にしようとした上知令2が大名や旗本の猛反対にあい、これが最終的な原因となって改革はわずか2年ほどで失敗に終わってしまいました。
三大改革の背景の違いは?
いずれも「幕府の財政を再建させる」という点では共通しています。
その上で以下のような違いがあります。
| 改革名 | 主な時代 | 背景にある主な問題 |
| 享保の改革 | 18世紀前半 | 「支出の増大と収入の伸び悩み」 家綱や綱吉の時代の派手な政治で蓄えが底をつき、米をベースにした幕府のシステムが、広がりつつある貨幣経済に追いつけなくなったのです。 |
| 寛政の改革 | 18世紀後半 | 「天災と商業主義への反動」 先代の田沼意次が商業を奨励した結果、賄賂が横行し、格差が広がりました。そこへ「天明の飢饉」が襲い、打ちこわしが激発。社会不安がピークに達していました。 |
| 天保の改革 | 19世紀半ば | 「内憂外患」 国内においては天保のききんや大塩平八郎の乱が、外交においては外国船来航への対応で、幕府の権威は失墜していました。 |
幕府を追い抜く!?「雄藩」たちの成長
幕府の改革が空回りする一方で、外様大名を中心に独自に力を蓄える藩が現れました。
これらを雄藩と呼びます。
- 薩摩藩(鹿児島県):調所広郷が、莫大な借金の返済期間を無理やり延長して、財政を立て直しました。また特産品の黒砂糖の専売制を実施し、琉球との密貿易などで利益をあげました。
- 長州藩(山口県):村田清風を中心に、借金の整理(返済期間の延長)や特産品である「紙・蝋・塩」を専売制にしました。
- 肥前藩(佐賀県):鍋島直正が、陶磁器(有田焼)を専売制にして、藩の財源にします。その稼いだお金で最新式の反射炉を建設。大砲などの軍事力を強化しました。
これらの藩は、幕府をしのぐ実力をつけ、後の幕末の動乱で主役となっていくのです。
チェックテスト
江戸幕府が必死に守ろうとした「古い仕組み」は、もう限界に来ていました。
次は、いよいよ時代の大きな変わり目を見ていきましょう。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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