【中学歴史・第61回】維新の三大改革|一問一答テスト(無料プリント付)

中学歴史

明治新政府は1871年に廃藩置県はいはんちけんを断行したことで、(一応)中央集権国家体制ができ、強い権力を握ることができました。

そこで、翌年1872年頃から思い切った政策に着手していきます。

その中でも「維新の三大改革いしんのさんだいかいかく」として、教科書に取り上げられているものがありますので、今回はその3つの具体的な内容を解説していきます。

学制:近代教育の始まりと寺子屋との違い

ひとつ目は教育面です。

江戸時代にも寺子屋てらこやがあり、意外と庶民でも識字率は高めだったといわれていました。

しかし、欧米に追いつくためには、国民の知識レベルをもっと底上げする必要があると考え、欧米的な教育制度を整えようとします。

まず1871年9月2日(明治4年7月18日)に文部省を設立。

次いで1872年9月4日(明治5年8月2日)に学制がくせいを公布しました。

特に初等教育に力を入れ、満6歳以上の男女を小学校に通わせるという、義務教育を導入しようとしたんですね。

その結果全国に万校以上の小学校が設立されます。

学制の主な特徴

【国民全員が対象】

身分や性別に関係なく、すべての国民に教育を受けさせようとしました。女子にも教育を受けさせるというのは、当時としては画期的でしたが、男子に比べると就学率は低めでした。
また男子も、重要な働き手とされていたので、最初の頃は通学に反対する人も多かったようです。

【実学を重視】

儒教などの道徳的な学問よりも、実用的な知識が重視されました。

【授業料は自己負担!】

なんと授業料や学校の建設費などは、国民負担でした。

■寺子屋と学制の違いは?
 寺子屋(江戸時代)学制・小学校(明治以降)
運営者民間(僧侶、武士、村の名主など)国家・地方自治体
教育目的日常生活や商売に役立つ知識近代国家の国民としての教育
カリキュラムオーダーメイド(個人のペース)全国統一(学年制・時間割)
教科書往来物おうらいもの1(地域や職業に応じたもの)国定・検定教科書(全国共通)
学習形態自習形式(先生が個別に回る)一斉授業(教室で全員同じ内容)

寺子屋は「個別指導」、小学校は「集団授業」という違いは、特にチェックしておきましょう。

大学も設立

1877年に、開成学校と東京医学校を統合して、最初の総合大学である東京大学とうきょうだいがくを設立しました。

新政府の学制はフランスをお手本にしており、本当は全国各地にもっと大学をつくりたかったのですが、予算がなく、実現はできませんでした…。

しかし、民間では福沢諭吉ふくざわゆきち慶應義塾けいおうぎじゅく新島襄にいじまじょう同志社どうししゃを創立して、新しい人材の育成を目指すという動きは見られました。

また、海外から外国人教師を招いたり、留学生を派遣したりして、先進的な知識を吸収しようとしました。

兵制:徴兵制度と「血税」の誤解

ふたつ目は軍事です。

江戸時代のように武士に任せるのではなく、国民全員が兵士になるという考え方を導入しました。

1873年1月10日(明治5年11月28日)に徴兵令ちょうへいれいが施行されます。

徴兵令の主な特徴

【国民全員が対象】

「すべての国民(満20歳に達した男子が対象)が兵士になる」という考え方です。江戸時代まで続いた「武士だけが武器を持つ」という特権を奪い、身分に関係なく軍務につくことになりました。

【近代的な軍隊の創設】

フランスやドイツの制度を参考に、組織的な軍事訓練や近代兵器の導入が進められました。

【数多くの免除規定】

すべての国民とはいえ、最初の頃は多くの人が徴兵を免除されていました。政府も予算不足だったので、そもそも最初から国民皆兵こくみんかいへいは無理がありました。

どんな人が免除された?
戸主こしゅ(一家の主)やその跡継ぎ(長男)
官吏かんり(公務員)や学生
代人料だいにんりょう(270円)を払った人 等々

徴兵令は士族からは「戦う特権を奪われた」という不満が、平民からは「負担が増えた」という不満が出ました。

また、徴兵令の前年に出された「徴兵告諭ちょうへいこくゆ」の中に、「血税けつぜい」という言葉が使われていたため、「生き血を取られるのか!?」という誤解を生んで、血税一揆けつぜいいっきも起きました。

税制:米から現金での徴収へ

みっつ目は税について。

教育でも、軍事でも、とにかくお金がないのが新政府です。

安定した収入を国が得るために、税を徴収する制度の抜本的な改革が必要でした。

そこで、1873年に地租改正ちそかいせいを実施します。

地租改正の主な特徴

【所有者と土地の価格を定める】

誰がその土地を所有しているか、またその土地がいくらするのか(地価ちか)を確定させました。これがかなり重要なポイントになります。土地の所有者には面積や地価が書かれた地券ちけんが発行されました。

【税率は地価の3%】

それまでの年貢は「収穫高」に対して税率が決まっていました(五公五民とか)。それを「地価」に対する税率に変更したのです。3%と聞くと、収穫高の半分ほど取られることに比べて安く感じますが、土地の値段を高く設定されたので、軽い税負担ではありませんでした。

【現金での納付】

米を納める物納から、貨幣で納める形に変わりました。

【一揆がおきて、税率が変更】

地租改正により、政府の税収入は安定します。

しかし「地価の3%は高い!」という不満を持った民衆による大規模な一揆が起こり、1877年には2.5%の税率に変更しました。

【一問一答】チェックテスト(問題・解答)

今回の三大改革はいずれも1872年から1873年に実施されています。

これは廃藩置県によって「国家の枠組みが整ったので、今度は中身を」という面が大きかったのですが、それとは別に、岩倉使節団が海外視察に行っている間の「留守政府」が頑張りすぎた面もありました。

海外視察組と留守政府は、のちに対立することになるのですが、それはまた別の回で。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 往来物とは寺子屋で用いられた教科書のようなものです。「口は是禍の門(くちはこれわざわいのかど)」のように、道徳をテーマにしたものなどがありました。もともとは手紙(往来)の形をとっていたので、往来物と総称されます。 ↩︎

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