【中学歴史・第76回】アジアの民族運動|一問一答テスト付

1919年5月4日に北京の学生集会をきっかけに起こった反日運動「五・四運動」 中学歴史

今回は、第一次世界大戦が終わった後のアジアの民族運動について。

朝鮮、中国、インドにおける民族運動の「共通点」や「違い」について、確認していきましょう。

なぜアジアで独立の動きが広まったの?

第一次世界大戦が終わり、世界は平和への道を歩み始めました。

アメリカのウィルソン大統領が掲げた「民族自決みんぞくじけつ(それぞれの民族の運命は自分たちで決めるべきだ)」というスローガンは、植民地支配に苦しむ人々に大きな希望を与えます。

実際にヨーロッパでは、敗戦したドイツや、革命が起きたソ連の影響力が弱まったことで、ポーランドやチェコスロバキアといった国々が次々と独立を果たしました。

「ヨーロッパでできるなら、私たちもできるはずだ!」

とアジアの人々は考えましたが、現実はそう甘くありませんでした。

戦勝国側だった日本やイギリスなどは、自分たちの利権を手放そうとはしなかったのです。

朝鮮:響き渡る「独立万歳!」の声

当時の朝鮮は、日本の朝鮮総督府ちょうせんそうとくふによる厳しい支配下にありました。

そんな中、独立への火をつけたのは「高宗(元皇帝)の死」と、海外での民族自決の動きでした。

「今こそ立ち上がる時!」

という機運が一気に高まったのです。

1919年3月1日、高宗の葬儀のために京城けいじょう(ソウル)に集まっていた民衆を前で独立宣言が読み上げられます。

民衆は「独立万歳どくりつばんざい!」と叫んで行進。

この三・一独立運動さんいちどくりつうんどうは、瞬く間に朝鮮全土へ広がりました。

日本の対応の変化

日本は当初、武力でこの運動を激しく抑え込みましたが、世界からの批判もあり、支配の方針を「文化政治ぶんかせいじ」へと転換しました。

具体的には、それまで禁止していた朝鮮語の新聞の発行を認めたり、警察の制度を少し緩めたりするなど、朝鮮の文化や慣習を一定程度尊重するポーズを見せるようになったのです。

しかし、根本的な同化政策どうかせいさく(朝鮮人を日本人化させる教育など)が止まったわけではなく、その後も独立運動は続きました。

朝鮮でのこの民族運動は中国にも影響を与えます。

中国:若者たちの怒りと「五・四運動」

中国は1917年に第一次世界大戦に参戦し、近代史上初めて戦勝国となりました。

またウィルソンの十四か条の平和原則に刺激されたこともあり、日本が突きつけた「二十一か条の要求にじゅういちかじょうのようきゅう」を白紙に戻そうと、強い決意と期待を持ってパリ講和会議こうわかいぎに臨みました。

中国側は「大戦中に日本が奪った山東省さんとうしょうドイツ権益を中国に直接返還すること」や「不当な要求の撤廃」を訴えます。

しかし、イギリスやフランスは早期から大戦に参加していた、日本の意見「山東省のドイツ権益は日本が引き継ぐ」等々を尊重します。

これに激怒したのが北京の大学生たちです。

1919年5月4日、北京の天安門広場てんあんもんひろばに集まった学生たちは「国を売るな!」と叫んでデモを起こしました。

これが五・四運動ごしうんどうです。1

この動きは労働者や商人にも広がり、全国的な日本製品の不買運動ふばいうんどうへと発展しました。

1921年ワシントン会議の影響もあり、結局、日本は山東省の権益を中国に返還しました。

しかし、99年間に延長された旅順りょじゅん大連だいれんの権益や、満州での利権は依然として保持し続けたため、中国の人々の不満は消えず、不買運動はその後も長く続くことになります。

この混乱の中、孫文そんぶんが率いる中国国民党ちゅうごくこくみんとうと、新しく誕生した中国共産党ちゅうごくきょうさんとうは、バラバラだった国内をまとめるために手を組みました(第一次国共合作だいいちじこっきょうがっさく)。

インド:ガンディーの「静かなる戦い」

インドでは、大戦前から植民地支配が続くイギリスとのバトルがありました。

大戦中、イギリスは「戦争に協力してくれたら、戦後に自治じちを認める」と約束し、約150万人のインド人兵士を戦場へ送りました。2

しかし戦争が終わると、イギリスは約束を反故ほごにします。

それどころか、疑わしい人物を裁判なしで投獄できるような厳しい法律(ローラット法)を作り、支配をさらに強めようとしたのです。

これに対し、インド国民会議のリーダー、ガンディーが立ち上がります。

彼は、暴力で対抗すればさらに激しい暴力で鎮圧されるだけだと考え、「非暴力ひぼうりょく不服従ふふくじゅう」の抵抗運動を提唱しました。

昔ながらの糸車で綿糸をつむぐ、インドの民族独立運動の指導者ガンディー
手動の糸車で綿糸をつむぐガンディー。イギリスの紡績機械を使わずに、昔ながらの方法で糸をつむぐことも「非暴力・不服従」の抵抗運動のひとつでした(PD:Unknown author この画像はAIで少し着色しています)

「イギリスの命令には従わない、でも決して手は出さない」というこの運動は、イギリスをひどく困らせました。

罪のない人々がただ座り込み、殴られても抵抗しない姿は、世界中の同情を集め、イギリスの支配の正当性を根本から揺るがしたのです。

すぐには完全な独立は勝ち取れませんでしたが、この運動はイギリスに「もう力だけでインドを支配し続けるのは不可能だ」と悟らせる大きな一歩となりました。

アジア3か国の民族運動まとめ

当時の運動を整理してみましょう。

運動名主な訴え・理由行動の内容その後の相手国の対応
五・四運動中国二十一か条の要求撤廃、山東省の返還学生デモ、日本製品の不買運動山東省は返還したが、満州の利権は保持
三・一独立運動朝鮮日本からの独立独立宣言、デモ行進(独立万歳)武力鎮圧の後、文化政治へ方針転換
抵抗運動インド約束された自治の実現非暴力・不服従(不買、拒否)弾圧を続けたが、徐々に自治を認め始める

【共通点】
どの国も「民族自決」の影響を受け、自分たちの国を自分たちで取り戻そうとした点、そして一部の知識層だけでなく、若者や一般民衆が主役となって動いた点が共通しています。

【一問一答】チェックテスト(問題・解答)

今回出てきた「山東省」「旅順・大連」「北京」「京城(ソウル)」の場所が、地図上の記号で示されても選択できるように、地図で確認しておきましょう。

入試で聞かれるかもしれません。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 中国はベルサイユ条約の調印を拒否しました。 ↩︎
  2. このうち3万6000人が戦死したといわれています。 ↩︎

解説文やプリントの効率的な使い方はこちらからご確認いただけます。

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