明治時代は維新の功労者たちが力を持つ、藩閥政治が行われていました
しかし、日清戦争後あたりから、政党も力を持ち始めます。
【中学歴史・第68回】日清戦争の回で、立憲政友会が誕生したは覚えていますか。
この後(日露戦争前後)は、藩閥(桂太郎)と立憲政友会(西園寺公望)と、交互に政権を担当する桂園時代にはいります。
第一次護憲運動:怒れる民衆と「閥族打破」
桂園時代は、まだ一部の特権階級(藩閥)が力を持ちつつも、少しずつ「国民の意見を政治に反映させよう」というエネルギーが溜まっていた時期だったんですね。
ところが1912年、転換点が訪れます。
第二次西園寺内閣が、陸軍の増強要求を拒んだことで総辞職に追い込まれたのです。
次に登場したのは、またしても藩閥(長州藩出身)の桂太郎でした。
桂は天皇の権威に頼り、議会を抑え込もうとしたため、国民が反発。1
尾崎行雄や犬養毅らが中心となり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第一次護憲運動が巻き起こります。

※AIにてカラー化

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数万人の群衆が議会を囲むほどの勢いに押され、桂内閣はわずか50日余りで退陣しました。
護憲運動によって桂内閣が倒れたこの一連の事件を「大正政変」といいます。
これが、国民の力が政治を動かした大きな一歩でした。
第一次世界大戦後の好景気と米騒動
その後、世界では第一次世界大戦が勃発します。
日本は戦場から遠かったため、被害が少なかっただけでなく、戦争によって物資が不足していたヨーロッパに工業製品を輸出して「大戦景気」に沸きました。2
船成金などの「成金」が登場し、重化学工業も大きく発展します。
しかし、景気が良くなれば物価も上がります。
さらに1918年、ロシア革命を抑えるためのシベリア出兵を見越した商人たちが米を買い占めたことで、米の価格が急騰。
米の安売りを求める富山県の主婦たちが立ち上がり、全国的な米騒動へと発展しました。
この混乱を抑えられなかった当時の寺内正毅内閣は、責任を取って退陣することになります。
「平民宰相」原敬による本格的政党内閣
寺内の次に首相となったのは、爵位を持たない「平民宰相」こと原敬でした。
彼は衆議院の第一党である立憲政友会の総裁として、閣僚のほとんどを党員で固める本格的な政党内閣を組織しました。

原内閣は1919年に選挙法を改正し、納税額などの制限を緩めて有権者を増やしましたが、すべての男性に選挙権を与える「普通選挙」にはまだ慎重な立場でした。
直接国税を「10円→3円」に引き下げるも…
原内閣は選挙権を持つために必要な直接国税(納税額)を10円から3円に引き下げました。この改正により有権者は約3倍に増えましたが、それでも有権者の割合は約5.5%でした。
民本主義と天皇機関説:大正デモクラシー
この頃の、自由な政治を求める社会の動きを「大正デモクラシー」と呼びます。
デモクラシーとは民主主義「democracy」のこと。
これを理論的に支えたのが、思想家の吉野作造と憲法学者の美濃部達吉です。
「民主主義」と「民本主義」は何が違う?
吉野作造が唱えたのは民本主義です。
なぜ「民主主義」と言わなかったのでしょうか?
- 民主主義:主権(国を動かす一番の権利)は「国民」にある。
- 民本主義:主権は「天皇」にあるけれど、政治の目的は「民衆」のためであり、民衆の意見を尊重すべきだ。
当時の憲法では、主権は天皇にあるとされていたため、その枠組みの中で最大限「国民の意見を大事にしよう」と工夫した考え方が民本主義だったのです。
また、美濃部達吉は、天皇は国家という組織の最高機関であるとする「天皇機関説」を広め、政党政治の正当性を理論づけました。
この天皇機関説をめぐり、のちに大論争が巻き起こることとなりますが、それはまた別の機会に。
【一問一答】チェックテスト(問題・解答)
大正は大衆が力を持った時代だったんですね。
大正は大衆♪ 大正政変、太郎は大変♪
ラップっぽく覚えるのありですね。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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