今回は厩戸王や飛鳥文化についてです。
他の時代区分と違ってちょっとややこしいのですが、古墳時代の終わりあたりから飛鳥時代が始まりまり、古墳時代の方が少し早く終わる感じです。
面倒に感じる人は「古墳時代の最後の方を飛鳥時代というんだな」くらいに覚えておきましょう。
この頃、中国や朝鮮半島はどうなっていたか?
前回の【第11回】古墳時代と大和政権で、中国が南北に分かれていた時代について触れました。
その後、6世紀末に隋という国が中国を統一します。
隋は律令や戸籍、税などの制度を作りました。
律とは、法律の律です。
令は、行政に関するルール、という感じでしょうか。
つまり、社会に必要な仕組みをきちんと整えたわけですね。
朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の国は引き続き存在していましたが、日本とつながりが強かった伽耶の国々は、新羅と百済によって滅ぼされてしまいます。
その結果、高句麗、新羅、百済の三つ巴の戦いが激化していきました(朝鮮での三国時代)。
有力豪族である蘇我氏と物部氏の対立が激化
大王(天皇)は存在していましたが、この頃の大和政権では豪族が力を持っていました。
次の天皇を誰にするかを決めるほどでした。
特に力を持っていたのが、蘇我氏と物部氏。
蘇我氏と物部氏は仲が悪く、百済から入ってきた仏教を認めるか認めないかで争います。
仏教を認める派が蘇我氏。
日本古来の神を重視し、外国の宗教である仏教は認めない派が物部氏。
長年にわたり、もめにもめ、最後は戦になりました。
この戦に勝利した蘇我氏はさらに力を強めます。
厩戸王(聖徳太子)の政治
蘇我氏のリーダーである蘇我馬子は自分の姪を天皇にしました。
日本史上初となる女性天皇である推古天皇です。
推古天皇は心細かったのか、馬子のいいなりにならないようにするためか、自分の兄の子である厩戸王(聖徳太子)を摂政にした、というようなことが日本書紀には書かれています。
摂政とは、天皇が幼少か、病弱、あるいは女性の際に、代わりに政務を行う役職のことです。
これは現代でも置かれている役職です。
ただ、最近では「当時摂政という官職はなく、推古天皇、厩戸王、蘇我馬子の3人が協力して政治を行った」とする説が有力になっています。
厩戸王の名前は聖徳太子の方が知られていますが、その呼び名が後の時代の資料に基づくため、今は厩戸王か、もしくは厩戸皇子の表記が優先されています。
つまり昔のことなので、何と呼んでいたのかはっきりしないんですね。
厩戸王たちの政治で重要なものが3つあります。
まず、遣隋使の派遣。
隋の煬帝という皇帝に使いを送ります。
1回目の遣隋使は倭の制度が整っていないと見なされ、門前払いのような扱いを受けました。
2回目は小野妹子を使いとしました。
このとき煬帝は妹子が持ってきた手紙の内容が無礼だとして激怒しました。
しかし、当時の隋は高句麗と緊張関係にあったので、倭国とは仲良くしておいたほうがいいと考え直したのです。
次に冠位十二階の制定。
当時は、豪族の氏ごとに役割や仕事が与えられていました。
例えば、蘇我氏には臣を与えて政治を任せるとか、物部氏には連を与えて軍事面を担当させるとか。
一族ごとに役割を与えていたものを、個人ごとに変えようというのが、この冠位十二階です。
最後は、十七条の憲法の制定。
役人としての心がまえや、仏教を大切にすることなどを17の文章にまとめました。
実際の流れとしては、1回目の遣唐使で門前払いをくらう→「もっと国の制度を整えねば!」と思い、冠位十二階、十七条の憲法を制定する→国として、隋と付き合う準備ができた!→2回目の遣隋使派遣、という感じです。
中国や朝鮮半島の影響を受けた飛鳥文化
先に述べたように、この時代は中国や朝鮮半島との関わりが非常に深く、文化の面でも影響をかなり受けています。
飛鳥文化を一言で表すなら、仏教の文化です。
飛鳥文化の代表例としては、まず奈良にある法隆寺の釈迦三尊像。
法隆寺は厩戸王が建てたお寺です。
法隆寺でいうと、玉虫厨子と工芸品なども有名です。
厨子というのは、仏像などを収納するためのもので、装飾に玉虫の羽を使ったので、玉虫厨子と言われているそうです。
あとは、京都にある広隆寺の半跏思惟像。
国宝の彫刻部門で最初に指定されたものとして知られています。
ちなみにこれはガチャガチャで引き当てた黄金の弥勒菩薩半跏思惟像です

チェックテスト
厩戸王を主人公にした漫画で『日出処の天子』(山岸凉子作)というのがあるのですが、とてもおもしろく、教科書ではイメージしきれない人物や出来事なども理解しやすいです。
時間があればぜひ読んでみてください。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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