緒戦は好調だったものの、開戦後から半年たった1942年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、次第に戦況が悪化していきました。
そして人々の暮らしもますます苦しくなっていきます…。
すべてが戦争に捧げられた「動員」の時代
太平洋戦争が長期化するにつれ、若い男性は戦地に送られて、日本国内からはいなくなっていきました。
徴兵を猶予されていた大学生も戦地へ
もともとは成人男子が兵士として送られていましたが、人手不足が深刻になると、文系の大学生や高等専門学校生までが招集されます。
これが1943年10月から行われた学徒出陣です。

中学生や女学生も、勉強どころではありません。
彼らは勤労動員として軍需工場などで働かされました。

女子挺身隊とは?
戦時中の労働力不足を補うため、中学生以上の未婚女性で組織され、軍需工場などで強制的に働かされた団体のことです。女子学生(女学生)なども勤労動員として駆り出され、本来の学び舎を離れて、航空機の部品製造や被服の製作といった軍事支援に従事しました。
空襲を避けるために集団で疎開する小学生
1944年7月にサイパン島が陥落します。
するとサイパン島を拠点として、アメリカ軍による日本本土への空襲が開始されました。
軍事拠点だけでなく、一般市民が暮らす都市への空襲が激しくなると、国民学校の小学生たちは、親元を離れて田舎へ移る疎開を余儀なくされました。

食料は不足し、正確な情報も伝えられない日々
日々の暮らしも限界でした。
食べ物は配給制となり、深刻な食料不足に。
さらに新聞や雑誌、さらには小説家や芸術家までもが国の統制下に置かれ、「戦争に協力しない表現」は一切許されない息苦しい社会へと変わっていきました。

新聞報道は言論統制によって、政府や軍部を批判しにくいということもありました。
しかし、大本営発表をメディア側が検証することなく、そのまま発表したことで、国民に間違った認識を持ち、それが戦争を長期化させた原因のひとつにもなったといわれています。
占領地や植民地の人々の苦しみ
日本の支配は、植民地や占領地の人々にも大きな犠牲を強いました。
朝鮮人や中国人は、日本国内の鉱山や工場へ連れて行かれ、過酷な労働を強いられました。
1943年には朝鮮で、1944年には台湾で、徴兵制が導入されました。

日本は東南アジアの占領地で、軍事用の物資を奪ったり、日本語教育を押し付けたりしたため、現地の人々の不満は高まり、各地で激しい抗日・抵抗運動が巻き起こることになったのです。
東条英機は1943年11月に、東京で大東亜会議を開いて、中国や満州、タイ、ビルマなどの代表を招き、協力を呼びかけましたが、あまり効果はあがりませんでした。
総力戦が生んだかつてない悲劇
この戦争は、国全体の力を注ぎ込む「総力戦」でした。
第一次世界大戦も総力戦でしたが、太平洋戦争ではその規模がさらに拡大しました。
かつては戦場といえば前線でしたが、飛行機の発達により、標的は一般市民が住む都市へと移ります。
執拗な空襲は、人々の戦意をくじくために行われました。

第二次世界大戦による世界の死者は5000万人を超えたと言われています。1
それまでの戦争と決定的に違ったのは、亡くなった人の多くが軍人ではなく、無抵抗な民間人だったという点です。
戦争は、前線だけでなく、すべての人の日常を奪い去るものへと変貌していたのです。
【一問一答】「戦時下の生活」のチェックテスト(問題・解答)
戦争中は娯楽に対する統制が厳しくなりました。
しかし、規制当局にもまして厳しかったのが、一般の「投書階級」と呼ばれる人たちです。
「投書階級」とは西洋的なものなどに対して、やたらと新聞社やNHKに投書(クレーム)を入れる人たちのことです。
今でいう「○○警察」と呼ばれるような人たちが、戦争中にもいたんですね。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!
- 第二次世界大戦の死者数は8,000人を超えるという説もあります。 ↩︎



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