【中学歴史・第87回】戦時下の生活(学徒出陣・疎開)|一問一答テスト付

「文系大学生は戦地へ」という文字と共に、日の丸の旗を振る人々に送られながら、銃を肩に厳しい表情で行進する若い兵士(学徒兵)たちのイラスト。 『フニオの社会科』のアイキャッチ画像。 中学歴史

緒戦しょせんは好調だったものの、開戦後から半年たった1942年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、次第に戦況が悪化していきました。

そして人々の暮らしもますます苦しくなっていきます…。

すべてが戦争に捧げられた「動員」の時代

太平洋戦争が長期化するにつれ、若い男性は戦地に送られて、日本国内からはいなくなっていきました。

徴兵を猶予されていた大学生も戦地へ

もともとは成人男子兵士として送られていましたが、人手不足が深刻になると、文系の大学生高等専門学校生までが招集されます。

これが1943年10月から行われた学徒出陣がくとしゅつじんです。

1943年、雨の明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会で、銃を肩に行進する学生兵たちの列と、それを見守る超満員の観衆。
1943年10月21日、明治神宮外苑競技場で行われた「出陣学徒壮行会」。雨が降る中、観客の前を学徒兵たちが行進しています(PD/AIによりカラー化)

中学生女学生も、勉強どころではありません。

彼らは勤労動員として軍需工場などで働かされました。

第二次世界大戦中の日本で、作業着(もんぺ)を着用し、鉢巻を締めた女子挺身隊の少女たちが、教官と思われる男性に向かって敬礼をしながら門を通過する様子。
第二次世界大戦中の日本で、作業着(もんぺ)を着用し、鉢巻を締めた女子挺身隊の少女たちが、教官と思われる男性に向かって挙手注目の敬礼をしながら門を通過する様子(PD:apanese book “Showa History of 100 million people: War History of Home Front” published by Mainichi Newspapers Company/AIによりカラー化)

女子挺身隊じょしていしんたいとは?
戦時中の労働力不足を補うため、中学生以上の未婚女性で組織され、軍需工場などで強制的に働かされた団体のことです。女子学生(女学生)なども勤労動員として駆り出され、本来の学び舎を離れて、航空機の部品製造や被服の製作といった軍事支援に従事しました。

空襲を避けるために集団で疎開する小学生

1944年7月にサイパン島が陥落します。

するとサイパン島を拠点として、アメリカ軍による日本本土への空襲が開始されました。

軍事拠点だけでなく、一般市民が暮らす都市への空襲が激しくなると、国民学校小学生たちは、親元を離れて田舎へ移る疎開そかいを余儀なくされました。

多くの小学生が空襲から逃れるため、親元を離れて地方の寺院などへ疎開しました(PD:apanese book “Showa History Vol.11: Road to Catastrophe” published by Mainichi Newspapers Company/AIによりカラー化)

食料は不足し、正確な情報も伝えられない日々

日々の暮らしも限界でした。

食べ物は配給制となり、深刻な食料不足に。

さらに新聞雑誌、さらには小説家や芸術家までもが国の統制下に置かれ、「戦争に協力しない表現」は一切許されない息苦しい社会へと変わっていきました。

1938年頃の内閣情報部において、山積みになった新聞や雑誌を一行ずつチェックし、検閲作業を行う役人たちの様子。スーツ姿の男性たちが机に並び、真剣な表情で作業しているカラー化写真。
内閣情報部による新聞・雑誌の検閲作業(1938年頃/PD:内閣情報部・JACAR写真週報14号/AIによりカラー化)

新聞報道は言論統制によって、政府や軍部を批判しにくいということもありました。

しかし、大本営発表をメディア側が検証することなく、そのまま発表したことで、国民に間違った認識を持ち、それが戦争を長期化させた原因のひとつにもなったといわれています。

占領地や植民地の人々の苦しみ

日本の支配は、植民地や占領地の人々にも大きな犠牲を強いました。

朝鮮人中国人は、日本国内の鉱山工場へ連れて行かれ、過酷な労働を強いられました。

1943年には朝鮮で、1944年には台湾で、徴兵制ちょうへいせいが導入されました。

1930年代後半から1940年代にかけて、日本軍の軍服を着て銃を肩に担ぎ、山道を隊列を組んで行軍する朝鮮人志願兵たちの白黒写真(カラー化済み)。
1943年、朝鮮半島にて撮影。志願兵制度によって動員された若者たちが、険しい山岳地帯を背に行進しています(PD:Japanese book “Asahi Historical Photographs Library: War and People 1940-1949 Vol.2” published by Asahi Shimbun Company./AIによりカラー化)

日本は東南アジアの占領地で、軍事用の物資を奪ったり、日本語教育を押し付けたりしたため、現地の人々の不満は高まり、各地で激しい抗日こうにち抵抗運動が巻き起こることになったのです。

東条英機は1943年11月に、東京で大東亜会議だいとうあかいぎを開いて、中国や満州、タイ、ビルマなどの代表を招き、協力を呼びかけましたが、あまり効果はあがりませんでした。

総力戦が生んだかつてない悲劇

この戦争は、国全体の力を注ぎ込む「総力戦」でした。

第一次世界大戦も総力戦でしたが、太平洋戦争ではその規模がさらに拡大しました。

かつては戦場といえば前線でしたが、飛行機の発達により、標的は一般市民が住む都市へと移ります。

執拗な空襲くうしゅうは、人々の戦意をくじくために行われました。

東京大空襲後の、現在の中央区東日本橋付近。隅田川が流れ、焼け野原となった市街地にコンクリート造の建物だけがわずかに残っているカラー化写真。
空襲によって、焼け野原となった東京市街(現在の中央区東日本橋付近)。隅田川が見えます(PD/AIによりカラー化)

第二次世界大戦による世界の死者5000万人を超えたと言われています。1

それまでの戦争と決定的に違ったのは、亡くなった人の多くが軍人ではなく、無抵抗な民間人だったという点です。

戦争は、前線だけでなく、すべての人の日常を奪い去るものへと変貌していたのです。

【一問一答】「戦時下の生活」のチェックテスト(問題・解答)

戦争中は娯楽に対する統制が厳しくなりました。

しかし、規制当局にもまして厳しかったのが、一般の「投書階級」と呼ばれる人たちです。

「投書階級」とは西洋的なものなどに対して、やたらと新聞社やNHKに投書(クレーム)を入れる人たちのことです。

今でいう「○○警察」と呼ばれるような人たちが、戦争中にもいたんですね。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 第二次世界大戦の死者数は8,000人を超えるという説もあります。 ↩︎

解説文やプリントの効率的な使い方はこちらからご確認いただけます。

コメント