今回は、世界が「核戦争になるかも……」という恐怖に震えた時代から、少しずつ話し合いで解決しようと動き出した「緊張緩和(デタント)」1の時代についてです。
その時代に日本がどのように世界と向き合い、沖縄を取り戻したのかを見ていきましょう。
氷がとけたり固まったり?揺れ動く冷戦と新しい勢力
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営に分かれて対立する冷戦の真っ只中でした。
しかし、1950年代に入ると変化が訪れます。
1953年にソ連の指導者スターリンが死去したことをきっかけに、少しずつ歩み寄りの兆しが見え始めました。
一方、米ソのどちらにも属さない「自分たちの道を進もう」という国々も現れます。
インドのネルー首相やエジプトのナセル大統領らが呼びかけ、1955年にインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開かれました。
彼らは「第三世界」と呼ばれ、植民地支配に反対し、平和を訴える大きな力となったのです。
ところが、平和への道は平坦ではありません。
1962年のキューバ危機では、核戦争寸前の最大の緊張が走りました。

この反省から、翌年には部分的核実験禁止条約が結ばれるなど、緩和の動きが進みます。
「部分的」ってなに?
部分的核実験禁止条約は、核実験の場所を「部分的」に禁止したため、このように呼ばれています。爆発を伴う核実験は「大気圏内、宇宙空間、水中は、死の灰が降るから禁止!」としたのですが、地中での実験は禁止しませんでした。核開発で米ソに遅れをとっていたフランスや中国はこの条約に参加せず、その後も実験をつづけました。
さらに世界は「米ソの二強」から、西ヨーロッパ諸国によるEC(欧州共同体)の結成や、西ドイツの東方外交2など、国際関係の多極化が進んでいきました。
1960年代後半には、泥沼化したベトナム戦争に対して世界中で激しい反戦運動が起こり、時代は大きな転換点を迎えていたのです。

隣国との握手!日本の国交回復への道のり
世界が揺れ動く中、日本も近隣諸国との関係を立て直していきます。
まずはソ連です。
1956年、鳩山一郎首相がモスクワへ渡り、日ソ共同宣言に調印しました。

これにより戦争状態が終わり、ついに日本は国連への加盟を果たします。
また、長らく続いていたシベリア抑留や北洋漁業の問題も前進しました。
続いてはアジア諸国です。
ビルマ、フィリピン、インドネシア、ベトナムの東南アジア4カ国との賠償金の問題は、合計で3643億円を支払うことで解決しました。
1965年にはアメリカの後押しもあって、佐藤栄作内閣のときに、韓国と日韓基本条約を結びました。
そして大きなニュースとなったのが中国です。
1972年、田中角栄首相が訪中して日中共同声明を出し、ついに国交が正常化。
1978年には日中平和友好条約が結ばれ、両国の協力関係が本格的にスタートしました。
ついに戻ってきた沖縄!「核抜き・本土並み」の約束
最後は懸案事項だった沖縄の本土復帰についてです。
サンフランシスコ平和条約後も、沖縄や小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれたままでした。
広大な米軍基地が居座り、米兵による事故や刑事事件が相次ぐ中、島民の間では祖国復帰運動が巻き起こりました。
1960年にはじまったベトナム戦争が、沖縄や小笠原諸島の本土復帰問題の風向きを変えます。
沖縄は米軍がベトナムを攻撃する上で、非常に重要な拠点となったのです。
沖縄の基地を使い続けたいアメリカは、まず小笠原諸島の返還というカードを切ります。
さらに「沖縄を日本に返還するかわりに、基地は使い続ける」という妥協点で折り合いをつけようとしました。
この時、首相だった佐藤栄作がこだわったのが「核抜き・本土並み」です。3
基地から核兵器を撤去させ(核抜き)、本土と同じ法律を適用させる(本土並み)という意味です。
アメリカとの粘り強い交渉の末、1972年に沖縄の本土復帰を実現させました。
しかし、沖縄には多くの米軍基地が残り続けていることで、さまざまな事件や問題がおこり、「沖縄の基地問題」は現在でも解決にいたっていません。
佐藤栄作は沖縄本土復帰を実現したことでノーベル平和賞を受賞しましたが、後にアメリカとの間で「密約(非常時には核は持ち込んでいい/米軍が負担すべき費用を日本が負担)」が存在していたことが明らかになっています。
【一問一答】「冷戦の緊張と緩和」のチェックテスト(問題・解答)
政治家の名前や条約がたくさんでてきますので、「誰が、どの条約を結んだのか」を、意識して覚えるようにしましょう。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!


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