今回から平安時代です。
期間は次の鎌倉時代まで約400年ありますが、第17回で扱うのは8世紀後半から9世紀初め頃までの話です。
都を奈良から京都へ
奈良時代の後半は、天皇が仏教を重んじすぎたことで、政治的に混乱しました。
道鏡を寵愛した称徳天皇には子供がいなかったため、天武天皇から続いた血筋が途切れます。
次の天皇になったのは、天智天皇(中大兄皇子/天武天皇の兄)の孫でした。
この方は光仁天皇といいます。
即位した時の年齢は62歳。
今のところ最高齢での即位です。
そして、その光仁天皇のあとを継いだのが、桓武天皇です。
桓武天皇は「奈良は仏教勢力が強すぎる」と思い、都を移しました。
長岡京への遷都です。
この地は桂川や宇治川などが合流して淀川になる場所だったので、陸路だけではなく、水路も使えるメリットがありました。
しかしその後、遷都の責任者であった藤原種継が暗殺される事件があったり、川が氾濫する災害があったりしたため、別の場所に都を移すことにしました。
平安京への遷都です。
行われたのは794年、「鳴くよウグイス平安京」ですね。
「平安京への遷都」って、「遷都した結果、平安京になった」と考えると少しおかしい感じがしますが、このままいかせてください。
蝦夷を平定せよ!
桓武天皇が行ったこととして、平安遷都以外にも、蝦夷討伐という案件があります。
当時、東北地方には朝廷の支配を嫌がっている地元民たちがいました。
この人たちを蝦夷といいます。
蝦夷の夷という字は「未開の民」「野蛮人」を意味します。
奈良時代から、東北地方に拠点を築いて、なんとか従わせようと頑張っていたのですが、従ったと思ったら、反乱をおこしたりして、ほとほと手を焼いていました。
そこで桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷の討伐を命じます。
征夷大将軍というのは、もともと蝦夷征討軍の最高司令官だったんですね。
対する蝦夷軍はアテルイという族長がリーダーです。
胆沢地方(現在の岩手県奥州市あたり)を中心に勢力を持っていました。
アテルイって、どんな顔していたのかなと思い、AIでイメージイラストをつくってもらいました。

なんかゲームのキャラみたいです。
坂上田村麻呂が率いる政府軍は手こずりました。
蝦夷は馬にのって、弓をつかうテクニックを持っていたんです。
しかし、胆沢城を造る政府軍にアテルイが驚き、なんとか降参させることができました。
学習まんが『日本の歴史4』集英社版には、アテルイとモレ(蝦夷の族長)が「こんなにたやすく城を築くとは」と驚くシーンがあります。
これが降伏のきっかけとなった描写がありますが、別の説として、降参したことによって胆沢城の本格的な工事が可能になったという説もあるようです。
坂上田村麻呂はアテルイを京都に連れ帰り、命を助けるように公卿たちに申し出ましたが、受け入れられず、アテルイは大阪で処刑されてしまいます。
その後朝廷は、東北地方に新たな拠点を築き、支配力を強めようとしましたが、なかなかうまくいかなかったようです。
都の造営と東北の平定という、2つの大事業は民衆にとって大きな負担でした。
桓武天皇はこの二大政策を継続するかどうかを、部下に議論させ、最終的に廃止の意見をくみ取って、なくなく打ち切りを決めました。
仏教界で二大巨頭が誕生
桓武天皇は奈良の仏教勢力と距離をおきたかったので、奈良の大寺院を京都に移転させませんでしたが、新しい仏教は支持しました。
9世紀の初めには、仏教界ですごい人物が2人も登場します。
最澄と空海です。
2人とも唐にわたり、仏教を学んだあと、日本に帰って新しい宗派を立ち上げました。
最澄が天台宗、空海が真言宗です。
空海は弘法大師という名前でも有名ですね。
「弘法筆を選ばず」とか「弘法も筆の誤り」とかで、有名なあの方です。
それぞれ開いた宗派とともに、拠点となった山とお寺も覚えましょう。
天台宗が比叡山延暦寺、真言宗が高野山の金剛峯寺です。
比叡山延暦寺は、法然や親鸞など、鎌倉新仏教を生み出す多くの僧が修行したお寺でもあるんですよ。
菅原道真の活躍と失脚
桓武天皇のあとをついだのは平城天皇で、その後は平城天皇の弟である嵯峨天皇と続きます。
少し話がさかのぼりますが、藤原不比等という人物を覚えているでしょうか。
不比等には4人の息子がおり、それぞれ南家、北家、式家、京家という4つの家をつくっていました。
これをまとめて藤原四家といいます。
嵯峨天皇の時代になると、その中の藤原北家が天皇と姻戚関係を持ち、力を持つようになっていました。
他の有力貴族を陰謀やら策略やらで退け、858年には藤原良房が臣下としては初めてとなる摂政になります。
また、良房のあとを継いだ藤原基経は、884年に初めての関白に任命されます。
関白という役職は、のちに豊臣秀吉がその位に就いたことでも知られていますね。
藤原氏が強い勢力を持ちすぎたため、宇多天皇は摂政や関白はおかず、菅原道真という頭のいい学者を用いて、藤原氏に対抗しようとします。
道真が行った案件で最も有名なのが、遣唐使の廃止です。
西暦894年。
「白紙に戻そう遣唐使」ですね。
当時、すでに唐は国力が弱まっており、「わざわざ危険をおかしてまで、中国に行く必要はなし」という判断でした。
ですが、道真も藤原氏の策略で、大宰府に左遷となりました。
藤原氏、こわいですね…。
この菅原道真を主人公にしたマンガがあります。
『応天の門』(灰原薬/新潮社)というマンガなのですが、在原業平や良房、基経なども登場します。
この時代の人の様子もわかるので、ぜひ読んでみてください!
チェックテスト
長岡京遷都の責任者だった種継が殺された事件で、桓武天皇の弟である早良親王が容疑者のひとりとなり、流罪となりました。
早良親王は無罪を訴えてながら、死んでいったようです。
その後、怨霊となり、災いをもたらしたため、それを嫌がった桓武天皇が平安京への遷都を決めたという説があります。
「これはもう、遷都をせんとあかんな」。
こわっ。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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