【中学歴史・第21回】院政から平氏政権へ

中学歴史

平安時代の5回目です。

平安時代は400年くらいあるので、かなり長いですね。

ですが、そろそろ平安時代も終わりが近づいています。

上皇による院政

10世紀のはじめ頃、つまり藤原道長が望月の歌を詠んでいた頃は、天皇の祖父(外戚がいせき1)として非常に大きな力を持っていました。

しかし、あとを継いだ頼通よりみちは、父親の道長と同じように自分の娘をせっせと天皇に嫁がせたのですが、有力な皇子に恵まれませんでした。

藤原氏と距離のある後三条天皇ごさんじょうてんのうは、お気に入りの側近でまわりを固め、自分が思うように政治を進めていきます。

まず、増えすぎた荘園を整理しました。

藤原氏や有力寺院の荘園も例外なく整理の対象となり、新しい荘園や手続きで不備があった荘園は停止処分を受けました。

これを延久の荘園整理令えんきゅうのしょうえんせいりれいといいます。

また、税のごまかしを防ぐため、米の量をはかるための「ます」も統一しました。

後三条天皇が決めたこのますは宣旨枡せんじますといい、その後長い間、公的な枡として使われました。

しかし、後三条天皇は病のため、40歳で亡くなります。

次の天皇は白河天皇しらかわてんのうでしたが、すぐに皇位を息子の堀河天皇ほりかわてんのうに譲ります。

このとき堀河天皇はまだ8歳。

白河天皇は上皇じょうこうとして、自ら政治を行いました。

上皇が政治を行うことを院政いんせいといいます。

堀河天皇は病弱だったため、早くに亡くなったのですが、その後即位したのがまだ幼かった(幼稚園の年少さんくらいだった)鳥羽天皇とばてんのう

当時、白河上皇は出家して、法皇ほうおうとなっていたのですが、引き続き院政を行っていきます。

上皇という立場は、天皇と違って、細かいルールや行事ごとに縛られることがないので、自由なんですね。

身分や家柄に関係なく、自分が見込んだ人をよんで会議をしたり、住むところを自由に決めたりできました。

白河上皇の力は絶大で、荘園もたくさん持っていました。

「賀茂川の水、双六のサイコロの目、比叡山延暦寺の僧、この3つだけは自分の思うままにならない」と嘆いたそうですが、逆にいうと、他のだいたいのことは思うままであったとも言えます。

骨肉の争いが勃発!

権勢を誇った白河上皇がなくなられると、鳥羽上皇も同様に院政を行います。

鳥羽上皇は父親である白河法皇とも仲が悪かったらしいのですが、息子の崇徳上皇すとくじょうこうとも仲がよくなかったようです。

鳥羽上皇は崇徳天皇を無理に譲位させて、実権のない上皇に追いやったり、自らの病気の際も見舞いを断ったりしています。

崇徳上皇としても思うところがあったようで、鳥羽上皇が亡くなった後、その不満が争いに発展します。

また同時期に藤原氏の間でも後継者争いがあり、それぞれの陣営が源氏や平氏を味方につけて、内乱をおっぱじめました。

これが1156年に起こった保元の乱ほうげんのらんです。

「争いはじめてもいいころ1156よ」で覚えましょう。

戦いは1日で終わり、天皇側が勝利しました。

戦いの構図は↓こうです。

勝ち後白河ごしらかわ天皇藤原忠通ふじわらのただみち平清盛たいらのきよもり源義朝みなもとのよしとも
天皇家藤原氏平氏源氏
負け崇徳すとく上皇藤原頼長ふじわらのよりなが平忠正たいらのただまさ源為義みなもとのためよし
源為朝みなもとのためとも
保元の乱の対立関係

同じ一族でありながら、兄と弟、叔父と甥、父と子に分かれ争いました。

その後、後白河上皇の院政が始まりますが、またまたもめ始めます。

後白河上皇にくっついて力をもった信西しんぜいという人物がいました。

後白河上皇には藤原信頼ふじわらののぶよりという近臣もいたのですが、この藤原信頼が信西を嫌っていたのです。

藤原信頼は信西を排除しようと、源義朝に協力を求めました。

1159年、平治の乱が起こります。

「平氏負けて、日々号泣1159」で覚えましょう。

しかしこの乱は、熊野に出かけていた清盛が京に戻り、うまくことをおさめました。

結局、信頼は斬首、義朝は逃げる途中に部下に殺されます。

この時、義朝の子である源頼朝みなもとのよりともも乱に参加していたため、殺されそうになりますが、伊豆への流罪でゆるされました。

清盛の時代

平治の乱後、力を持ったのは平清盛でした。

武士として初めて太政大臣だいじょうだいじんに就任し、平氏一族はそろって高い地位を得ます。

多くの荘園や公領を支配し、西日本一帯の武士を従わせることに成功しました。

また、清盛は中国の宋に注目し、兵庫の港を整備して、日宋貿易にっそうぼうえきは開始したり、藤原氏のように自分の娘を天皇の后にして、外戚としての力を得たりしました。

上の写真は広島県廿日市はつかいち市にある厳島神社いつくしまじんじゃです。

清盛はこの神社の造営を行い、貿易船が無事航海できることや、平氏の繁栄を祈ったらしいです。

金や銀で装飾された豪華な経典も奉納しました。

これを平家納経へいけのうきょうといいます。

おごれるものも ひさしからず

勢いのあった平氏に、貴族や寺社は不満を持っていました。

清盛が後白河法皇(出家して法皇になっていた)を幽閉して、孫である安徳天皇あんとくてんのうを即位させると、後白河法皇の王子である以仁王もちひとおうが、平氏打倒の命令を発します。

伊豆(静岡県)に流されていた源頼朝や、木曽谷(長野県)にいた源義仲みなもとのよしなかが挙兵します。

先に京都にやってきて、平氏を追い出したのは義仲でしたが、どうも素行面で問題があり、後白河法皇に嫌わてしまったようです。

義仲討伐の命令を受けた源義経みなもとのよしつねにやられてしまいました。

頼朝は鎌倉を本拠地として、弟である源範頼みなもとののりよりと源義経をうまく使い、平氏を追い詰めていきます。

まず、一ノ谷いちのたに(兵庫県)から屋島やしま(香川県)、そして壇ノ浦だんのうら(山口県)で義経が大活躍し、平氏は滅亡します。

チェックテスト

平安時代は前半は桓武天皇や嵯峨天皇が存在感があり、その後藤原氏の摂関政治→白河上皇の院政→平氏の栄華と、権力が移り変わっていくところがおもしろいですね。

登場人物などもいっぱいになってきましたので、前の回もちょこちょこ見返して復習しましょう。

次はいよいよ鎌倉時代に突入です!

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 外戚:母方の親戚のこと。 ↩︎

コメント