【中学歴史・第63回】岩倉使節団と征韓論|一問一答テスト付

サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉、伊藤博文、大久保利通 中学歴史

今回は明治政府が直面した「外交の壁」について。

近代にいたるまでの東アジアは、中国を中心とした秩序が支配していました。

日本も古代から江戸時代にいたるまで、時には中国に朝貢ちょうこう(貢ぎ物を持って挨拶に行く)したり、時にはその枠組みから外れたりしながら、つき合ってきたのです。

しかし、幕末にやってきた欧米列強は、自分たちが決めた「万国公法ばんこくこうほう」という新しい共通ルール(国際法)を押しつけてきました。

その欧米列強や中国、朝鮮と、明治政府がどのような外交を展開したのかを確認しましょう。

欧米との高い壁!岩倉使節団の派遣と挫折

明治政府にとって最大の目標は、幕末に結ばされた不平等条約安政の五カ国条約あんせいのごかこくじょうやく)を改正することでした(安政の五か国条約についてはこちら→【中学歴史・第57回】黒船と不平等条約)。

万国公法によれば「文明国同士は対等な条約を結んでつき合う」「憲法や議会がない半文明国とは、不平等な条約でいい」となっていたのです。

つまり、当時の日本は「半文明国」だったわけです。

日本はこの条約改正の予備交渉と、文明国になるための情報収集のため、1871年12月、岩倉具視いわくらともみを代表に、大久保利通おおくぼとしみち木戸孝允きどたかよしら政府のトップが岩倉使節団いわくらしせつだんとして旅立ちました。

7歳の女の子も一緒だった?
岩倉使節団には、のちの女子教育の先駆者となる津田梅子つだうめこら5人の少女も同行していました。津田梅子は当時わずか6歳。彼女たちは幼い身で異国の文化を吸収し、日本の近代化に別の角度から貢献することになります。

岩倉具視と大久保利通の見た新世界

彼らの目的は条約改正の予備交渉でしたが、最初の訪問地であるアメリカで予想以上の歓迎を受け「もしかしたら条約改正できるかも」と、少し甘い期待を抱いてしまいます。

しかし、アメリカの国務長官から「全権委任状がない」と、交渉を拒否されてしまいます。1

大久保と伊藤博文いとうひろぶみが急いで帰国し、明治天皇の委任状を持って、再びアメリカに(これだけのために往復で4ヶ月かけました)。

しかし、今度は「司法制度が整っていないからだめ」と、やはり突っぱねられてしまいます…。

「だったら最初に言っといてよ」って感じですよね。

手痛い洗礼を受けてしまった視察団は「条約改正はいったんあきらめて、視察をしっかり行おう」と、気持ちを切り替え、トータル2年近くにわたる視察旅行を行いました。

そして、欧米の圧倒的な工業力や軍事力を目の当たりにした彼らは、「今は条約改正どころではない。まずは日本の国力を高める(富国強兵)ことが先決だ」と痛感したのです。

新政府が抱えていた外交課題とは?
当時の日本は、幕末に締結した安政の五カ国条約のため、自国の税率を決められない「関税自主権かんぜいじしゅけんの欠如」と、外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けない「領事裁判権りょうじさいばんけんの承認」という2つの大きな問題点を抱えていました。これを解消しなければ、日本はいつまでも欧米の言いなりになってしまうという危機感があったのです。

アジアとの関係と、政府を二分した「征韓論」

欧米との付き合いとは別に、清や朝鮮との外交についても方針を決めなければいけません。

新政府は「欧米に文明国として認識されるために、中国や朝鮮に対しても欧米流の外交、つまり条約を締結しよう」と考えました。

近隣諸国と条約を通じた国交を持つことで、文明国としての実績づくりをしようとしたわけです。

日清修好条規と朝鮮の拒絶

もともと清とは江戸時代に貿易は行っていましたが、正式な国交は結んでいませんでした。

清との条約締結は、先述したように「外交の実績づくり」という理由もありましたが、他にも日本との条約締結を拒否する朝鮮に対して、朝鮮の宗主国である清と対等につきあえば、日本への接し方も変わるだろうという目論見もあったのです。

1871年、清(中国)と日清修好条規にっしんしゅうこうじょうきを結びます。2

これはお互いに対等な立場で結んだ近代的な条約です。

ところが、朝鮮はやっぱり日本の開国への求めを拒否します。

当時の朝鮮は「中国以外とは付き合わない」という伝統的な考えを守っていたため、西洋風の格好をして、「天皇」の呼称を使う日本のやり方が許せなかったのです。

征韓論と大久保・木戸の反対

この朝鮮の対応に強硬な姿勢をみせたのが、日本で留守を守っていた西郷隆盛さいごうたかもり板垣退助いたがきたいすけらです。

彼らは「朝鮮を武力で開国させろ」という征韓論せいかんろんを唱えました。

その当時の日本が最も恐れていたのは、ロシアの南下政策です。

「朝鮮の近代化が遅れれば、朝鮮半島はロシアの植民地にされてしまう」
「朝鮮を近代化させて日本の防波堤にしたい」

といった狙いが、征韓論の背景にはありました。

また、士族の仕事がなくなり、政府に対する不満が高まる中で、「朝鮮に出兵すれば活躍の場ができる」「不満をそらすことができる」という計算が働いたことも、少なからずあります。

しかし、帰国した岩倉、大久保、木戸らは猛反対。

征韓論で激論をかわす明治政府の首脳たち(西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・大久保利通・木戸孝允ら)

大久保利通
「今は内政(国内の整備)が第一」
「戦争などして金を使えばロシアやイギリスにつけ入られる!」

木戸孝允
「まずは憲法を作り、国家の基礎を固めるのが先だ!」

視察組と留守組の対立の結果、西郷、板垣たちは政府を去ることになりました。

これを明治六年の政変めいじろくねんのせいへんといいます。

強硬手段に出た日本と「日朝修好条規」

征韓論で政府は分裂しましたが、その後も政府は朝鮮の開国をあきらめませんでした。

江華島事件と不平等条約

1875年、日本は軍艦を朝鮮の江華島沿岸に送り込み、測量行為などの挑発行動をとります。

これに朝鮮側が砲撃、軍事衝突に発展してしまいました(江華島事件こうかとうじけん)。

日本はこの事件をきっかけに、翌年、力ずくで日朝修好条規にっちょうしゅうこうじょうきを結ばせました。

繰り返された「不平等」

皮肉なことに、この条約で日本は朝鮮に領事裁判権りょうじさいばんけんを認めさせるなど、かつて自分が欧米から押し付けられたのと全く同じ「不平等な内容」を朝鮮に強いました。

こうして日本は、欧米の帝国主義的な世界に飲み込まれていくのです。

【一問一答】チェックテスト(問題・解答)

欧米諸国が力を持つ現在の世界でも、アジアの国々とどう付き合っていくかは大事になテーマですね。

今回の解説はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 全権委任状とは、天皇から「交渉を任せる」と認められた証明書のようなものです。 ↩︎
  2. 条規は条約とほぼ同じ意味合いです。 ↩︎

解説文やプリントの効率的な使い方はこちらからご確認いただけます。

コメント