江戸時代まで、日本やその周りの国々には、実は「ここから先は100%うちの国!」という明確な国境線はありませんでした。
東アジアでは「なんとなく影響力がある範囲」という、あいまいな関係が普通だったんです。
しかし、明治時代になると欧米諸国がやってきて、「国境がはっきりしない土地は、早い者勝ちで奪っちゃうよ?」というルール(近代的な国際関係)を突きつけてきました。1
これに焦った明治政府は、急いで日本の「端っこ」を確定させる必要があったのです。
北の国境:樺太と千島列島をめぐる交渉
まずはロシアとの境界です。
江戸時代の日露和親条約では、択捉島と得撫島の間が国境とされましたが、樺太については「日本人もロシア人も住んでOK」という、あいまいな状態にされていました。
1875年、樺太・千島交換条約
その後、ロシアがどんどん南樺太に進出してきたため、政府内では「樺太はあきらめて、蝦夷地(北海道)の開拓に力を入れよう」という意見が強くなっていきました。
そこで1875年、政府は樺太・千島交換条約を結びます。
日本は樺太をあきらめるかわりに、得撫島からカムチャツカ半島の南端にあるロパトカ岬のすぐそば、占守島までの千島列島をすべて日本の領土にしました。
北方領土のルーツ
もともと北方領土は江戸時代から日本が実効支配していました。
日露和親条約で領土が確定したあとも、引き続き住民は海産物の加工や畜産業などで生計を立てていました。
太平洋戦争が終わる1945年8月の段階では、1万7000人ほどの人が暮らしていたといわれています。
しかし戦後はロシアが不当に支配しており、北方領土問題としていまだ解決されていません。
周辺の島々の領有と国際的なルール
明治政府は北の国境だけでなく、太平洋や日本海側でも「日本の領土」を固めていきます。
あいまいだった小笠原諸島の領有を宣言
太平洋に浮かぶ小笠原諸島には、アメリカやイギリスの船も立ち寄っていました。
日本も江戸時代には発見し、移住した人もいましたが、欧米系の移住者もいたため、その帰属があいまいな状態だったのです。
そこで政府は1876年に小笠原諸島の領有を各国に通告。
他国から異議が出なかったため、日本領として確定しました。
1895年と1905年の閣議決定
さらに、1895年には尖閣諸島を、1905年には竹島をそれぞれ閣議決定(政府の会議で決めること)によって日本の領土に組み込んでいきました。
よく取り上げられるこれらの領域については、【中学地理・第5回】領域をめぐる問題 で詳しく解説していますので、ぜひチェックしてみてください。
アイヌと琉球:組み込まれた人々の苦難
地図の形が決まっていく一方で、もともとそこに住んでいた人たちの生活は激変しました。
蝦夷地から北海道へ
もともと蝦夷地と呼ばれていた北の大地には、先住民族のアイヌの人たちが暮らしていました。
明治政府は1869年に、ここを「北海道」と改称し、開拓使という役所を置いて開発を進めます。
ロシアからの守りを固めるため、農業をしながら警備もこなす屯田兵を送り込み、アイヌの人たちの土地をとりあげ、日本語や日本風の生活を強制する同化政策を行いました。
1899年には北海道旧土人保護法を作りましたが、これはアイヌ独自の文化を制限する側面も強かったのです。
琉球王国から沖縄県へ
琉球王国は、江戸時代までは清(中国)に朝貢しつつ、薩摩藩(日本)に支配されるという関係を続けてきました。
しかし明治政府は琉球を日本の領土とする方針をかため、強硬な姿勢に出ます。
まず琉球藩を置き、最後には軍隊や警察を送り込んで無理やり沖縄県を設置しました。
これを琉球処分といいます。2
最後の国王である尚泰は最後まで抵抗しましたが、東京へ連れていかれ、王国は滅亡しました。3
琉球処分のすぐあとは、混乱をさけるためにそれまでの制度は温存されましたが、政府は徐々に同化政策をとるようになりました。
【比較】アイヌ民族と琉球民族への対応
明治政府が行った、北と南の新しい領土への政策を整理してみましょう。
| 項目 | アイヌ民族(北海道) | 琉球民族(沖縄) |
| 共通点 | 日本の一部として組み込み、独自の文化や言語を制限する同化政策を行った。 | ←左と同じ。 |
| 異なる点 | 土地を国有地として没収し、屯田兵による急速な開拓を進めた。 | 反発を抑えるため、独自の税制や制度をしばらく残す旧慣温存を行った後、時間をかけて日本式に変えた。 |
| 関連する法律・出来事 | 北海道旧土人保護法 | 琉球処分 |
【一問一答】チェックテスト(問題・解答)
日本のカタチがこうして決まった裏には、もともとそこに住んでいた人たちの苦労や、厳しい国際社会のルールがあったんですね。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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