日本は、欧米列強と肩を並べ、近代国家になるため必須条件である「憲法」の作成に挑みます。
なぜ伊藤博文はドイツへ渡ったのか?
なぜ選挙で投票できる人がたった1.1%だったのか?
現代の日本の政治システムの原点ともいえる、大日本帝国憲法の誕生から最初の選挙までの流れを確認しましょう。
伊藤博文が秘密の準備! なぜ「ドイツ流」だったのか?
明治政府にとって、憲法を作ることは「日本が近代国家である」と、世界に証明するための重要なステップでした。
そこで大久保利通に代わって、政府のリーダーとなった伊藤博文が、憲法を学ぶためにヨーロッパへと渡ります。
当時、イギリスのように「議会の力が強すぎるモデル」は、まだ基盤が不安定な明治政府にとって、国をまとめるのが難しくなると考えられました。
そこで伊藤が手本にしたのが、君主(天皇)の権限をしっかり残しつつ、近代化を進めていたドイツ(プロイセン)やオーストリアです。
帰国後、伊藤は井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと準備を進めますが、その作業は別荘などで秘密裏に行われました。
当時は自由民権運動による政府への批判が強く、草案の内容が外に漏れて反対運動が起きるのを防ぐためでした。
憲法作成と並行して、1885年にはこれまでの太政官制を廃止して内閣制度を創設。
伊藤は初代内閣総理大臣に就任します。
さらに、華族令1の制定や、憲法案を最終チェックする天皇の相談役としての枢密院を設置し、慎重に体制を整えていきました。
1889年2月11日、大日本帝国憲法の発布
1889年2月11日、ついに大日本帝国憲法が発布されました。
この日が選ばれたのは、初代天皇とされる神武天皇の即位日(紀元節)というお祝いの日だったからです。
国民に対し、「これは天皇から授けられた尊いもの(欽定憲法)」であると示す狙いがありました。2
この憲法では、国民は「臣民」と呼ばれ、法律の範囲内で、言論・出版・集会・結社といった権利が認められました。
ただし、これらは無制限ではなく、国の秩序のために法律で制限することも可能というルールでした。
また、家族制度を定めた民法3では、一家の主である戸主に強い権限が与えられ、憲法発布の翌年に教育の指針として出された教育勅語とともに「天皇を中心とした家族のような国」という意識が国民に広められていきました。
【解説】大日本帝国憲法の仕組みと天皇の権利
大日本帝国憲法は、国の元首である「天皇」を国の中心に据えていました。
その特徴を整理してみましょう。
| 項目 | 内容・仕組み |
| 天皇の立場 | 国を治める主権者であり、「神聖不可侵」な存在。 |
| 天皇の権利(天皇大権) | 陸海軍を直接指揮する統帥権、法律の裁定、宣戦布告など。 |
| 帝国議会 | 天皇の立法を助ける。 衆議院と、皇族・華族らによる貴族院の二院制。 |
| 国民の権利 | 法律の範囲内で、言論・出版・集会・結社などの自由を保障。 |
有権者は1.1%! 日本初の衆議院議員選挙
憲法発布の翌年、1890年には第1回衆議院議員選挙が行われました。4
しかしその内容は、今の選挙とは大きく異なっています。
投票する側の選挙権も、立候補する側の被選挙権も、ともに「直接国税15円以上を納める、25歳以上(被選挙権は30歳以上)の男子」という厳しい制限がありました。
15円という税金は、非常に高額で、地方の地主層が中心となります。
そのため、有権者は人口のわずか1.1%(約45万人)でした。
選挙では、政府に反対し「民衆の税負担を減らせ」と主張する「民党(自由党や立憲改進党など)」と、政府の政策を支持する「吏党」が争いました。
選挙のあと、政治はどう動いたのか?
初めての選挙の結果、議会の多数派を握ったのは政府を批判する「民党」でした。
第1回帝国議会が開かれると、民党は「政費節減(無駄遣いを減らせ)」「民力休養(税金を安くして国民を休ませろ)」を掲げ、政府が出した予算案に真っ向から反対しました。
政府側は当初、議会の意見に縛られずに政治を行うという姿勢(超然主義)5をとりましたが、予算が成立しなければ国を動かすことができません。
政府は妥協案をさぐりながら、初めての帝国議会でなんとか予算を通過させました。
もし互いに譲歩せず、1回目の議会から予算案が不成立で衆議院が解散ということになったら、欧米諸国から「日本は立憲国家としてやっていけるのか」と、疑問視されてしまうことを、議員たちが理解していたからです。
ここから、政府と議会が話し合いや対立を繰り返しながら政治を進める「議会政治」が、一歩ずつ日本に定着していくことになったのです。
帝国議会の絵画にみる、現在の国会との違い
帝国議会の方には女性議員が描かれていません。参政権がなかったためです。また、天井にシャンデリアが描かれていることからわかるように、西洋の文化を取り入れることに積極的だったことがわかります。議員の人数は衆議院の方は300名だったため、現在の465名(2026年2月時点)と比べると、席の間隔が少しゆったりしているように見えます。
【一問一答】チェックテスト(問題・解答)
大日本帝国憲法は、現在の日本国憲法との対比でテストでよく問われます。
今の憲法とどう違うのかを意識して覚えておきましょう!
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!
- 華族令によって、それまでの華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に分類しました。旧公家や旧大名だけでなく、国家に功績のあった人物も華族になることができるようになりました。華族を増やすことで、貴族院の議員になれる人を増やす狙いがあったからです。ちなみに、この法律をつくった伊藤自身も伯爵になっています。 ↩︎
- 発布式では、明治天皇が内閣総理大臣である黒田清隆に手渡す形で行われました。このときの内閣総理大臣が伊藤博文ではない点に注意しましょう。 ↩︎
- 1890年に民法の一部が公布されましたが、内容が自由主義的だったので「日本の伝統的な家族制度をこわす」として、議論がまきおこり、施行は延期されました。その後、修正された民法が施行されました。 ↩︎
- 初めての衆議院議員選挙の投票率は非常に高く、約94%でした。 ↩︎
- 黒田清隆が演説の中で話した「政府は超然として政党の外に立つ」という内容から、このようにいわれています。 ↩︎



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