明治時代を通して、政府が取り組んだ超重要案件がありました。
幕末に結んだ不平等条約(安政の五か国条約)の改正です。
今回は日本がどのようにこの不平等条約の改正に成功したのか。
当時の国際情勢を押さえつつ、チェックしましょう!
欧米の「帝国主義」と岩倉使節団の挫折
19世紀後半、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどの国々は、資本主義が急速に発展しました。
製品の材料(資源)と売り先(市場)が必要となり、彼らはアジアやアフリカに目をつけます。
強大な軍事力と経済力で、東南アジア、インド、アフリカの国々を次々と植民地にしていきました。
19世紀後半から20世紀にかけて行われた、欧米列強による植民地支配や勢力拡大政策のことを帝国主義といいます。
明治時代の世界というのは、そうした弱肉強食の時代でもあったんです。
日本が欧米列強と肩を並べるためには、条約改正問題は最優先事項のひとつでした。
失敗続きの条約改正ルート
まずスタートは1871年に欧米に派遣された、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団。
このときは全く相手にされず、視察メインの派遣に終わってしまいます。
帰国後に彼らは「まずは近代化政策を!」と、矢継ぎ早に国内の改革を進めていきます。
税権の回復に取り組んだ寺島宗則
岩倉の次に本格的に取り組んだのが、外務卿を任された寺島宗則です。
1878年にアメリカを相手に関税自主権の回復で合意しました。
が、当時の最大の貿易国であったイギリスがこれに反発。
せっかくの条約締結が無効になってしまいます。
当時の日本はまだ憲法も国会もなく、国際的な地位も低かったことが、改正失敗の背景にありました。
井上馨の「欧化政策」
寺島の次に外務卿1となった井上馨は、欧米諸国を一堂に集めて話し合う「全体交渉」を目指しました。
皇居のすぐそばに西洋風建築の鹿鳴館を建てて、夜な夜な舞踏会を開き、欧化政策で条約改正を成功させようとしました。

井上の欧化政策は「うわべだけ西欧のマネをしている」とした批判にさらされるとともに、条約改正の条件として「外国人裁判官を日本の裁判所に置く」という妥協案にに対しても、反対の声が上がります。
さらに1886年にはノルマントン号事件2が起こり、領事裁判への不満が高まりました。
翌年には条約改正交渉が無期延期されることが決定してしまいます…。
大隈重信と『タイムズ』の衝撃
条約改正の交渉は、大隈重信が外務大臣のときに再開します。
大隈は列国同士の対立を利用して「個別交渉」で進めました。
井上の「外国人裁判官を参加させる」として非難されたことから、大隈は「大審院(最高裁判所)に限定する」と変更。
ところが、イギリスの新聞『タイムズ』にその秘密の交渉内容がすっぱ抜かれてしまいます。
「結局、また外国人裁判官を雇うのか!」「憲法違反だ!」と、政府も国民も猛反発。
それでもなお強硬に改正を進めようとした大隈は、反対派に爆弾を投げつけられ、片足を失う重傷を負ってしまいます…。
またしても、交渉はストップしてしまいました。
青木周蔵と大津事件の悲劇
大きく進展したのは、青木周蔵が外務大臣に就いたとき。
彼は一番難しいイギリスと交渉します。
東アジアに進出しようとするロシアの動きをとめたいイギリスは、日本に歩み寄ろうとしており、交渉はかなりいいところまで進んでいました。
ところが、1891年、来日中のロシア皇太子が警察官に斬りつけられる大津事件が発生!

この責任をとって青木は辞任し、またもや改正は遠のいてしまいます…。
司法の独立を守った大津事件
政府は、ロシアの報復を恐れて犯人を死刑にするよう裁判所に圧力をかけました。しかし、大審院長の児島惟謙は「謀殺未遂は重くても無期懲役。死刑は適用できない」と拒否し、司法の独立を守り抜きました。この姿勢は「法に基づき正しく裁判が行われる国だ」と欧米に強く印象付けました。この信頼が、のちに陸奥宗光が領事裁判権を撤廃させる際の大きな追い風となったのです。
なぜ1894年に実現したのか? 勝利のポイント
シベリア鉄道を敷設して、東アジアに進出しようとするロシアを警戒するイギリスは、日本を近代国家として認めはじめていました。
そして1894年、外務大臣の陸奥宗光が日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃に成功します。
条約改正が成功した3つのポイント
1.国力の証明:大日本帝国憲法の制定や刑法などの法律が整い、産業が発達したことで近代国家としての形が完成した。
2.イギリスの事情:当時、ロシアがシベリア鉄道を作ってアジアへ進出してくるのを、イギリスは警戒。そこでイギリスは「日本を味方にしてロシアを食い止めよう」と、日本を東アジアにおけるパートナーとして認める決断をした。
3.一点突破:世界最強かつ最難関の相手であるイギリスを説得することに全力を注いだ。
その後1911年に、小村寿太郎が関税自主権の「完全」な回復。
1904年からの日露戦争に勝利したことで、日本の国際的地位が上がっており、列国からの反対もありませんでした。
幕末から半世紀、日本はようやく全ての権利を回復し、欧米と対等な外交をできるようになったのです。
東アジアの緊張と日清戦争へ
日本は隣国の朝鮮が欧米、特にロシアの影響下に入ることを恐れていました。
朝鮮半島がロシアに支配されれば、日本の独立もあやういと考えていたのです。
そのため、日本は日朝修好条規を結んで、朝鮮への影響を強めようとしました。
しかし、そのことを快く思わない清との間で、徐々に対立が深まっていきます…。
【一問一答】チェックテスト(問題・解答)
条約改正交渉は、政府だけでなく、国民全体も関心が高い問題でした。
その熱量によって、改正にこぎつけた面も大きかったと思います。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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