今回は、世界史の中でも大きな転換点となった「ロシア革命」について。
ロシア革命が他の革命と違う点や、ロシア革命に対して他の国々がどのように反応したのかをチェックしていきましょう。
苦しむ国民が「パンと平和」を求める
20世紀初め、ヨーロッパでは第一次世界大戦という、国全体の力を注ぎ込む総力戦が繰り広げられていました。
ロシアも参戦していましたが、戦争が長引くにつれ、国内の状況は最悪に。
働き盛りの男性が戦場へ送られたことで、農村や工場では人手が足りなくなり、食料が決定的に不足します。
しかし、当時のロシア皇帝ニコライ2世は、国民の苦しみよりも自分の権力を優先する専制政治を続けていました。
これに不満を爆発させた民衆が、1917年3月に、首都のペトログラードで「パンと平和」を求めて立ち上がります。
これが三月革命です。

各地に労働者や兵士による代表会議(ソビエト)が作られ、ついに皇帝は退位。1
約300年続いたロマノフ王朝が終わり、代わって臨時政府が誕生しました。
が、彼らも戦争をやめようとしなかったため、混乱は収まりませんでした。
レーニンの登場と世界初の社会主義国家
そんな中、亡命先のスイスから帰国したのが革命指導者のレーニンです。
「すべての権力をソビエトへ!」と訴えた彼は、1917年11月に十一月革命を起こし、ついに政権を握ります。
レーニンが目指したのは、資本家が労働者を支配する世の中を変える社会主義の国づくりでした。
新政府は、土地や銀行、鉄道などをすべて国有化し、個人の持ち物ではなく「みんなの財産」へと作り替えていきます。
さらに、他国の支配を受けている民族が自分たちで進む道を自ら決める民族自決を認め、戦争相手国と講和を結んで、いち早く戦線から離脱しました。
これが、のちに誕生する世界初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の始まりです。2

日本と列強の焦り「シベリア出兵」
このロシアの動きに、周囲の国々は焦りました。
イギリス、フランス、アメリカ、そして日本といった資本主義の国々は、「この革命の影響が波及して、自分の国でも社会主義の革命が起きるのでは!?」と強く警戒したのです。
そこで彼らは、革命を潰すためにロシアへ軍隊を送り込みました。
1918年から1922年にかけて行われたシベリア出兵です。

特に日本は隣国ということもあり、他国よりも多くの軍隊を長く派遣し続けました。
しかし、この遠征はうまくいかず、かえって多額の戦費を使い、国内では「米騒動」が起きる原因にもなってしまいます。
シベリア出兵の裏事情:日本の思惑
なぜ日本は、他国が引き揚げた後もシベリアに残り続けたのでしょうか?
そこには「火事場泥棒」とも言われかねない、日本の隠れた計算がありました。
当初の目的は「チェコスロバキア軍の救出」という国際的な助け合いでしたが、日本の本音は別にありました。
ロシアが革命で混乱している隙に、シベリア東部(沿海州など)に日本の影響力を広げ、自分たちの言いなりになる「クッション役の国」を作ろうとしたのです。
しかし、この野心は裏目に出ます。
あまりに大量の兵を送り、長期間居座り続けたことで、アメリカやイギリスから「日本は領土を奪おうとしているのではないか?」と猛烈な疑いを持たれました。
結局、多額の税金と多くの命を失っただけで、日本は国際的な信用まで失うという、苦い結果に終わったのです。
スターリンの独裁と計画経済の光と影
レーニンの死後、実権を握ったのがスターリンです。
彼はさらに徹底した共産主義の理想を追求しようとしました。
1928年から始まったのが、有名な五か年計画です。
国が5年間の生産目標をきっちり決める計画経済により、重工業の発展や農業の集団化を強引に進めました。
この強力なリーダーシップにより、世界恐慌で苦しむ他国をよそにソ連は急速な工業化を遂げます。
しかし、その裏側は過酷なものでした。
無理なノルマや強引な農業改革のせいで、多くの農民が餓死し、逆らう者は厳しく処分されるという、恐ろしい独裁体制が築かれていったのです。
社会主義と共産主義って何が違うの?
よく似た言葉ですが、実は「段階」が違います。 社会主義は「働いた分だけ平等に報酬をもらおう」という考え方です。国が工場や土地を管理(国有化)し、格差をなくすことを目指す、いわば「共産主義への準備期間」です。
対して共産主義は、その最終ゴール。私有財産が制限され「能力に応じて働き、必要な分だけ受け取る」という究極の理想社会です。そこでは国や階級、お金すら必要なくなるとされました。
【一問一答】チェックテスト(問題・解答)
共産主義を目指した社会主義国は、20世紀末に行き詰まることになるのですが、それはもう少し後の回で解説します。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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