アメリカから始まった世界恐慌は、ドイツやイタリアでファシズムの勢力拡大を許してしまいました。
ドイツやイタリアと同じ「持たざる国」の日本でも、ドイツやイタリアと同じように海外に活路を見出すことで、恐慌を打破しようとしたのです。
満州事変で孤立する日本
【中学歴史・第80回】昭和恐慌と政党政治の行きづまりで解説したように、中国では関東軍が軍閥の首領である張作霖を爆殺する事件が起きました。
張作霖の息子である張学良は、日本に対抗するために、蒋介石が率いる国民政府の傘下に入ることを決意します。
柳条湖事件を起こし、満州を制圧
日本に奪われた満州の利権を取り戻そうとする中国側の動きに、関東軍は「満州の権益を守るためには、もはや満州を直接支配するしかない」と考えます。
そしてある軍事行動に出ました。
1931年(昭和6年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破したのです(柳条湖事件)。
そして「この爆破事件は中国側が起こしたもの。よって自衛のために軍事行動を開始する」として、満州各地に軍隊を送り込んだのです(満州事変)。

柳条湖事件は関東軍の自作自演でしたが、関東軍は満州の制圧に成功します。
1932年3月には、清朝最後の皇帝の溥儀を執政1として迎え入れて、満州国の建国を宣言しました。
関東軍を支持する民衆と、認めない犬養毅
関東軍が起こした満州事変は、相次ぐ恐慌で苦しんでいた日本国民に支持されました。
当時、日本国民の多数が「関東軍は日本の権益を守ってくれたんだ」と考えていたためです。
一方、総理大臣だった若槻礼次郎は、満州事変に対して閣僚をまとめることができず、柳条湖事件から約3ヵ月後に退陣します。
次に首相になったのは第二次護憲運動で有名な犬養毅。
犬養は満州国の建国をなかなか認めようとしませんでした。
「政府を無視した関東軍の軍事行動をすぐに認めてしまうと、歯止めがきかなくなってしまうのではないか」と恐れたのです。
また、国際連盟やアメリカなどと対立することも気にしていました。
犬養は中国側と交渉することで、着地点を見出そうと考えていたのです。
海軍将校による五・一五事件
こうした犬養の態度は、「満州国の即時承認」を求める軍部をいら立たせました。
1932年5月15日、海軍の青年将校たちが首相官邸を襲撃し、犬養を射殺してしまいます(五・一五事件)。

この暗殺事件によって、政党政治は完全に終わってしまいました…。
国際連盟を脱退
一方、日本(関東軍)の軍事行動に納得できない中国側は、国際連盟に提訴します。
国際連盟はイギリス人のリットンを団長すると調査団を、満州に派遣。
その調査結果を受けて、1933年に国際連盟の総会が開かれます。
日本側の言い分は「満州の権益は日本が日露戦争の結果、手にした正当な権益。国際連盟がその権益を守ってくれないから、自衛したのだ」というものでした。
この言い分は、ある程度認められたところもありました。
しかし国際連盟が出した答えは、「日本の軍事行動は自衛手段ではない」「満州国は認められない」というものでした。
日本代表の松岡洋右はこの決議に抗議し、議場から退場します。
翌月には国際連盟の脱退を通告し、日本は国際的に孤立していくのでした。2
軍部の台頭により、軍国主義の道へ
暗殺事件によって政党政治が終わると、今度は軍部の中で主導権争いが起きます。
当時の陸軍の中には皇道派と統制派に分かれて対立していました。
皇道派: 天皇中心の独裁政治を行い、武力による国家改造を主張。貧困にあえぐ農村出身の兵士に同情的で、青年将校たちに支持されました。
統制派: 軍の組織を整え、政府と協力して組織的な戦争準備を進める現実路線。
皇道派の青年将校たちは「今の日本が苦しんでいるのは、腐敗した政府首脳や財閥が原因。天皇の周りにいる悪い重臣たち(君側の奸)を取り除けば、日本は良くなる」と考えたのです。
二・二六事件が起きる少し前の時代にさかのぼると…
青年将校たちが暴走した背景には、農村の貧困だけでなく、第一次世界大戦後の国際協調路線もありました。戦後恐慌や震災恐慌が重なり、軍人は「無駄な税金を使う人」として、白い目で見られたのです。事件を起こした青年将校らは、多感な時期に「冬の時代」を経験したことで、軍人としてのプライドが傷つき、軍縮で居場所を失う恐怖を植え付けられたのかもしれません。
1936年2月26日の早朝、青年将校たちは決起した約1,500人の兵士を率いて、首相官邸や大臣の私邸、新聞社、警視庁などを次々と襲います(二・二六事件)。
永田町や霞が関といった東京中心部を占拠し、天皇による親政を実現させようとしました。
最初は青年将校に同情的だった軍部でしたが、臣下を殺害された昭和天皇が激怒。
2月29日には事件は収束し、反乱軍が目指した「天皇による親政」は実現しませんでした。
しかし、軍部はこの事件を利用します。
「自分たちの言うことを聞かなければ、また暴走するかもしれない」という脅しを背景にした発言力を強め、軍部を中心とした政治が行われるようになっていくのです。
恐慌からの立ち直りと重化学工業の発展
蔵相、高橋是清の経済政策
1930年から始まった昭和恐慌は、犬養内閣で大蔵大臣を任された高橋是清の政策により輸出量が拡大し、立ち直りをみせます。
特に綿製品の輸出量が伸び、イギリスから「不当に安い値で売っている(ソーシャル・ダンピング)」と批判されるほどでした。
ちなみにイギリスはこうした輸出品に対抗するためにブロック経済を行い、対立を深めていくことになります。
重化学工業の成長
高橋は期間限定で軍需産業にも力を入れ、1930年代後半には重化学工業の生産が軽工業を上回るほど成長します。
八幡製鉄所を中心とした国策会社がつくられ、鋼材が自給できるようにもなりました。
自動車や化学の分野では、日産や日窒といった新しい財閥が急成長し、日産は満州へ、日窒は朝鮮へ進出していきます。
経済は回復したものの、二・二六事件で暗殺される
景気を回復させた高橋でしたが、満州事変の時期と重なったことで、国民は「経済が持ち直したのは満州事変のおかげ」と考える人もいて、高橋の経済政策はあまり理解されていなかったようです。
また、高橋は軍事費の拡大を期間限定の緊急措置と考えており、軍部からの増額要求に対して「これ以上は出せぬ」と拒否したことから、逆恨みされてしまいました。
こうしたことが重なり、高橋は二・二六事件で暗殺されてしまったのです…。
【一問一答】「満州事変と軍部の台頭」のチェックテスト(問題・解答)
柳条湖事件、満州国建国、五・一五事件、国際連盟の脱退通告、二・二六事件など、続けざまに重要な出来事が次々と起こります。
並べ替え問題でも対応できるように、流れをしっかり頭に入れておきましょう。
日付まで書いてあるものは、年だけでなく、日付まで頑張って覚えましょうね!
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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