【中学歴史・第85回】第二次世界大戦の開始(ナチス・宥和政策・独ソ戦)|一問一答テスト付

独ソ不可侵条約を象徴する、握手しながらも背後で拳を固めるヒトラーとスターリンの風刺画風イラスト。背景にはドイツとソ連に分割されるポーランドの地図。 中学歴史

ファシズムが台頭したナチス・ドイツが、いよいよ戦争を仕掛けます。

最初はヨーロッパだけの戦いでしたが、東アジアも巻き込んだ世界大戦に発展します。

第二次世界大戦が「なぜ起こり」「どのように拡大していったのか」、また「ドイツの占領政策はどのようなものだったのか」を確認していきましょう。

なぜ戦争は起こったのか?―ドイツの暴走と「宥和政策」

ヒトラーは何を目指したのか?

第一次世界大戦に敗れ、重い賠償金に苦しんでいたドイツ。

そこに現れたのが、ヒトラー率いるナチス・ドイツでした。

彼が訴えたことは主に2つです。

ひとつは「ドイツ民族の統合」です。

わかりやすく言うと「ドイツ人がいるところは全部ドイツ」という考えです。

もうひとつは「大きくしたドイツ」を生き残らせるために、東ヨーロッパやロシアなど、東方に広がる広大な土地を獲得することでした。

この2つの目標を達成するためには、周辺国を飲み込み、第一次世界大戦で失った領土を回復しなければいけないと考えたのです。

まずヒトラーは1938年にはオーストリアを併合しました。

さらにドイツ系住民が多いチェコスロバキアズデーテン地方も要求します。

イギリスやフランスの宥和政策

ベルサイユ条約を無視したこのヒトラーの動きに対し、当初イギリスフランスは消極的な姿勢をとりました。

「これ以上の要求はしない」という条件で、ヒトラーの要求を飲み、ズデーテン地方の割譲を認めてしまったのです。

しかも、チェコスロバキアの代表が不在の会談で…。

宥和政策ゆうわせいさくと呼ばれるようになったこの態度が、ヒトラーをつけ上がらせることになりました。

この後ヒトラーは約束を破り、チェコスロバキア全土を解体。

保護領や保護国にしてしまったのです。

1939年3月、チェコスロバキア解体後にプラハ城の窓辺に立ち、赤い屋根が並ぶプラハの街並みを見下ろしているアドルフ・ヒトラーの横顔。カラー化により、街の景色や軍服の質感が鮮明に再現されている。
プラハ城の窓から占領下のプラハ市街を眺めるヒトラー(1939年3月16日/AIよりカラー化/PD)

広がる戦火―ヨーロッパの局地戦から世界大戦へ

ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発

翌1939年8月、さらに驚くことが起きました。

共産主義を嫌い、スターリンを批判していたヒトラーが、ソ連独ソ不可侵条約どくそふかしんじょうやくを結んだのです。

1939年、モスクワで独ソ不可侵条約に署名するソ連のモロトフ外相と、その後ろで見守るドイツのリッベントロップ外相、ソ連のスターリン最高指導者らのカラー復元写真。壁にはレーニンの肖像画が掛かっている。
レーニンの肖像画が見守る中で行われた独ソ不可侵条約の調印式。中央で署名しているのがソ連外相のモロトフ。後ろにはスターリンとその右隣にスーツを着たドイツ外相リッベントロップの姿も(1939年8月23日、モスクワ/AIによりカラー化/PD)

この条約には、ヒトラーとスターリン、それぞれの思惑がありました。

独ソ不可侵条約:両国の思惑とメリット

項目ドイツ(ヒトラー)の思惑ソ連(スターリン)の思惑
最大の狙い二正面作戦の回避
西欧(英仏)との戦争に集中するため、東側のソ連を中立化させる。
時間稼ぎ(軍の再建)
粛清しゅくせいで弱体化した軍を立て直す時間を稼ぎ、ドイツとの衝突を先延ばしにする。
領土的野心ポーランド侵攻の保証
ソ連の介入を気にせずポーランドを攻撃できる。
失地回復しっちかいふくと勢力圏拡大
ポーランド東部やバルト三国などを自国の勢力圏に収める。
外交戦略英仏への心理的打撃
反共はんきょう」を掲げる英仏に対し、ソ連と組むことで対抗する。
英仏への不信感
ドイツを自分たちにぶつけようとする英仏の思惑を逆手に取り、出し抜く。
本音「後で必ず裏切る」
西欧を片付けた後、いずれ「東方生存圏」のためにソ連を殲滅せんめつする。
「ヒトラーは信じない」
ドイツと英仏が戦って共に疲弊するのを待ち、最後に漁夫の利ぎょふのりを得る。
要するに、「相手のことは嫌いだけど、今はとりあえず手を握ろう」ということですね。

破竹の勢いのドイツがパリを占領

背後の安全を確保したドイツは、1939年9月ポーランドへ侵攻

ここにきてようやく、ヒトラーの野望を理解したイギリスとフランスがドイツに宣戦布告せんせんふこくし、第二次世界大戦が始まりました。

ポーランドの西側を獲得したドイツは、次は北ヨーロッパ(デンマーク・ノルウェー)や西ヨーロッパ(ルクセンブルク・ベルギー・オランダ)に進軍。

1940年6月にはフランスのパリを占領します。1

イギリスには激しい空襲くうしゅうを浴びせますが、イギリス首相チャーチルはなんとか耐え抜きます。

同じ頃、ソ連も独ソ不可侵条約の密約に基づいて、ポーランド東部バルト三国を併合していきました。

戦争はアジアにも拡大

1941年、ドイツ・ベルリンにて、背広姿で眼鏡をかけた日本の松岡洋右外相と、軍服姿のアドルフ・ヒトラーが並んで歩いている歴史的な写真のカラー復元版。背景には随行員たちの姿も見える。
ベルリンを訪問し、ヒトラーと会談する松岡洋右外相(1941年3月/AIよりカラー化/PD)

一方、アジア・太平洋地域でも動きがあります。

もともとドイツはイタリアベルリン・ローマ枢軸を結んでおり、そこに日本も加わる形で、1936年日独防共協定にちどくいぼうきょうきょうていを経て、1940年9月には日本・ドイツ・イタリアの間で日独伊三国同盟にちどくいさんごくどうめいが結ばれました。

この軍事同盟における日本、ドイツ、イタリアの思惑は次のようなものです。

日独伊三国同盟:各国の思惑とメリット

国名主な狙い(思惑)期待したメリット
日本アメリカの牽制けんせいと南進
泥沼の中国戦線を維持しつつ、東南アジアの資源地帯へ進出したい。
・ドイツの勢いを借りてアメリカを威圧し、参戦を思いとどまらせる。
・ドイツに敗れた仏・蘭の植民地(石油など)を確保する。
ドイツアメリカを欧州に入らせない
イギリスを追い詰め、いずれソ連を叩くために、アメリカを太平洋に釘付けにしたい。
・日本がアジアで暴れることで、アメリカの関心を欧州から逸らす。
・イギリスの戦力をアジアへ分散させ、本土防衛を弱体化させる。
イタリア地中海での覇権確立
「新ローマ帝国」を掲げ、北アフリカやバルカン半島を自分の勢力圏にしたい。
・ドイツの圧倒的な勝利に便乗びんじょうし、英仏の弱体化に乗じて領土を広げる。
・大国(独・日)と並ぶことで、国際的な地位を確保する。
結果的に、日本の「アメリカをけん制したい」という思惑は外れ、アメリカから「日本は敵」とみなされる要因になってしまいました

独ソがついに対決

ヒトラーは独ソ不可侵条約で一時はソ連と手を握ったものの、「イギリスがこんなに抵抗するのは、ソ連の援助を期待しているからだ」「敵であるソ連を攻める時が来た」と考えます。

ドイツは突如条約を破り、1941年6月にソ連への侵攻を開始(バルバロッサ作戦)。

独ソ戦が始まりました。

この段階でアメリカは参戦こそしませんでしたが、ローズベルト大統領が連合国側に大量の武器を送り支援を強めます。

同年8月には、イギリスのチャーチルとともに、平和な戦後の構想を掲げた大西洋憲章たいせいようけんしょうを発表。

世界は、ドイツ・日本・イタリアなどの枢軸国すうじくこくと、米・英・ソなどの連合国れんごうこくという2つの陣営に分かれて戦うことになったのです。

ドイツの占領政策―ユダヤ人やスラブ人への迫害

ドイツは広大な土地を支配下に置くと、過酷な占領政策を始めます。

東方のスラブ人からは食料物資を奪い、過酷な労働を強いました。

特に悲惨だったのが、人種差別による迫害です。

ユダヤ人たちは次々と強制収容所へ送られ、ポーランドのアウシュビッツなどでは大量虐殺(ホロコースト)が行われました。

オランダの隠れ家で日記2を書き続けた少女アンネ・フランクも、その犠牲者の一人です。

しかし、ナチス・ドイツに抵抗する人たちもいました。

占領された各地では、レジスタンス(ドイツへの協力拒否や武力による抵抗)の運動が盛んになります。

フランスでは、ドゴール将軍が亡命先のロンドンから自由フランス政府を率いて戦い続けました。

【一問一答】「第二次世界大戦の開始」のチェックテスト(問題・解答)

第二次世界大戦のように重要な出来事の場合、それが起こった「年」だけでなく、「月」、場合によっては「日」まで覚えておくべきものもあります。

今回は重要な「月」を解説文で太字にしていますので、チェックしてください!

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. ドイツ優勢を見たイタリアがこの段階で参戦します。 ↩︎
  2. アンネ・フランクが書いた『アンネの日記』はのちに世界的ベストセラーとなりました。 ↩︎

解説文やプリントの効率的な使い方はこちらからご確認いただけます。

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