太平洋戦争が始まってから、わずか半年で戦局が悪化した日本。
同盟を結んでいたイタリアやドイツも、ヨーロッパ戦線で苦境に立たされることになります。
イタリア、ドイツ、日本が降伏した時期に注目しながら、確認していきましょう。
頼みの綱だったドイツの敗北
1939年にポーランドに侵攻した後、ドイツは周辺国を次々と制圧していきました。
しかし、1943年2月にスターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北し、降伏したことから、その勢いを失います。

枢軸国のひとつだったイタリアも各地で敗戦を重ね、1943年9月には降伏しました。
戦争の流れが枢軸国側から連合国側に傾いた要因のひとつとなったのが、アメリカの存在です。
アメリカは大戦当初、連合国側に武器の提供を行っていたものの、戦争には加わっていませんでした。
しかし、1941年に日本がハワイの真珠湾を攻撃したことで参戦。
アメリカの軍事力はすさまじく、太平洋側で日本と戦いながら、ヨーロッパ側にも兵士を送り込みます。
1944年6月には、フランス北西部のノルマンディー上陸作戦を決行。

8月にはドイツに占領されていたパリを開放します。
ドイツは東西から攻め込まれる形となり、ベルリンが陥落。
1945年5月に降伏しました。
東京大空襲と沖縄戦:民間人の犠牲が広がる
終わりの始まり:ガダルカナル島からの撤退
1942年6月のミッドウェー海戦で大打撃を受け、勢いが止まった日本は、その後、太平洋諸島の各地で敗戦が続きます。
その最初の転機となったのが、1943年2月のガダルカナル島での敗北です。
ミッドウェーでは敗北はしたものの、拠点を奪われたわけではありませんでした。
しかしガダルカナル島での敗北は「撤退」を意味し、これが日本軍の「退却」の始まりになったわけです。
本土空襲の危機:サイパン島が陥落
連戦連敗の日本は「このラインだけは死守する!」という防衛線を、千島列島から、小笠原諸島、マリアナ諸島、東南アジアまで、太平洋に円を描くように引きなおしました。
「破られたら詰み」となるこのラインは、絶対国防圏といわれました。
しかし、1944年7月にサイパン島が陥落したことで、この絶対国防圏は破られてしまいます。
サイパン島から日本本土までは、約2,400km。
これはアメリカ軍の最新鋭爆撃機「B29」が往復できる距離です。

つまり、サイパン島を失ったことで、日本の本土が本格的に空襲の危機にさらされることになりました。
サイパン島陥落の責任を取り、東条内閣は総辞職しました。
東京大空襲と沖縄戦
日本本土への空襲をはじめたアメリカ軍は、まず地上からの攻撃が届かない高度1万メートルから爆撃しようとしました。
しかし、日本上空のジェット気流が思いのほか強く、ターゲットとなる軍需工場をピンポイントで爆撃することができません。
そこでアメリカ軍は作戦を変更し、「高度を下げて」「夜間に」、そして「無差別に」攻撃することにしました。
日本とアメリカではレーダー技術に差があり、日本は夜間の攻撃には対応できないと、アメリカ側は分析していたのです。
1945年3月10日、午前0時過ぎから約2時間にわたり、東京の下町を中心に焼夷弾による攻撃が行われました(東京大空襲)。
この空襲により、約10万人が死亡しました。
同じ3月、さらにアメリカ軍は沖縄に上陸します。
沖縄の民間人を巻き込んだ地上戦となり、約3ヵ月にわたる戦いによって、12万人以上の犠牲者を出しました(沖縄戦)。
「ひめゆり学徒隊」の悲劇
沖縄戦では、15歳〜19歳の女子生徒たちが「ひめゆり学徒隊」として戦場へ動員されました。彼女たちは、暗く不衛生なガマ(自然洞窟)の中で、負傷兵の看護や水汲みに命がけで従事しました。解散命令が出たのは激戦の最中。戦場に放り出された結果、多くの尊い命が失われるという悲劇が起きたのです。
日本の無条件降伏:ポツダム宣言を受諾
国体護持にこだわる日本
敗北はすでに決定的となっており、日本はどのようにして戦争を終結させるか模索していました。
そんな中1945年7月に、連合国側からポツダム宣言が発表されます。
このポツダム宣言は日本に対して無条件降伏を求めるものであり、その中には「戦争犯罪人には厳罰を加える」という内容が盛り込まれていました。
「天皇も処罰されるのか」「天皇制がなくなってしまうのではないか」と考えた政府や軍は「せめて天皇の地位だけは保証させるべき」として、すぐに受諾しようとしませんでした。
当時の鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言に対し、公式のコメントを出さなかったため、連合国側に「日本は宣言を無視した」という受け取り方をされてしまいます。
これがアメリカに原爆投下の口実を与え、ソ連の参戦を招く結果となりました。
アメリカの原爆投下とソ連の侵攻
実はポツダム宣言発表よりも数か月前となる1945年2月の段階で、アメリカのローズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの間である密約が取り交わされていました(ヤルタ会談)。

ローズベルトは「日本に上陸して戦えば、アメリカ軍にも相当の死者が出る。ソ連に対日参戦してもらえれば被害を減らせる」と考え、「ドイツ降伏から2~3ヵ月後」に日本を攻撃することを依頼したのです。
しかし、その後ローズベルトが急死した後、大統領となったトルーマンは考えが少し違っていました。
ソ連が参戦することで、戦後に共産勢力が拡大してしまうことを心配していたのです。
そんなトルーマンが7月にポツダムで会談している中、「原爆実験成功」の知らせが報告されます。
「これでソ連の力を借りなくても、戦争を終わらせることができる」と確信したトルーマンは、8月6日、広島にウラン型の原子爆弾(原爆)を投下します。
一方ソ連も、8日に日ソ中立条約を破り宣戦布告。
満州や樺太、朝鮮、千島列島などへ侵攻しました。1

広島に「新型爆弾」が落とされたとき、日本側は「アメリカは一発しか持っていないのでは」という憶測がありました。
トルーマンの「アメリカが原子爆弾を量産できることを知らしめる」、さらに「戦後、ソ連に対して政治的な駆け引きで有利に立つ」、また「新型兵器としての威力を検証したい」といった思惑から、9日に2発目となる原子爆弾を長崎に投下します。
長崎の原子爆弾は、プルトニウム型でした。
ポツダム宣言を受諾:日本降伏へ
アメリカの原子爆弾投下とソ連の参戦により、14日に日本はついにポツダム宣言を受諾することを決定します。
翌日15日にはラジオで、昭和天皇自らが日本の敗戦を伝えました(玉音放送)。

玉音放送は難しい言葉が使われていたことや、音声の状態もよくなかったため、大多数の人は内容を理解することができませんでした。
ただ、放送を聞いている周りの人々の雰囲気で「あぁ、日本は敗けたんだな」ということを理解したそうです。
玉音放送の後も戦闘が継続されているところもありましたが、9月2日にアメリカ戦艦ミズーリ号で日本代表の重光葵が降伏文書に調印し、正式に戦争が終わります。
【一問一答】「大戦の終結」のチェックテスト(問題・解答)
太平洋戦争末期の出来事は、「年」だけではなく「月」「日」まで覚えておきましょう。
特に「原爆投下」「ソ連参戦」「ポツダム宣言の受諾」「玉音放送」の日付けは要チェックです!
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!
- 日ソ中立条約は破棄した後も1年間は有効だったため、ソ連による侵攻は条約違反でした。 ↩︎



コメント