【中学歴史・第89回】占領政策の開始(GHQ・東京裁判)|一問一答テスト付

戦後の日本で、ジープからチョコレートを配るアメリカ軍兵士と喜ぶ子どもたちのイラスト。占領政策の一環としての「好感度向上」と、その費用を日本が負担していた事実を示す「チョコ代も日本が負担」の文字。 中学歴史

1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印した日本。

その後、約7年間にわたって、連合国軍の占領下におかれることになりました。

マッカーサーやGHQは何をしたかったのか

日本がポツダム宣言を受諾してから、約2週間後。

神奈川県にある厚木あつぎ海軍飛行場に、ダグラス・マッカーサーが降り立ちます。

1945年8月30日、厚木基地に到着した直後のマッカーサー元帥とサザーランド中将ら一行。サングラスをかけ、コーンパイプをくわえて腰に手を当てるマッカーサーの姿。
1945年8月30日、専用機バターン号から降り立った直後の様子。右から2番目の、サングラスをかけてコーンパイプをくわえているのが、マッカーサーです(PD:Army Signal Corps/AIにより高解像度化)

彼が率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶによって、日本の占領政策せんりょうせいさくが始まりました。1

GHQは軍が日本を直接支配するのではなく、GHQが日本政府に命令や指示を出す「間接統治かんせつとうち」の形を取りました。

また、日本占領にあたり必要な費用は、日本政府が負担することになりました。2

徹底した非軍事化と民主化

マッカーサーの占領政策で重要なポイントは大きく2つです。

徹底した「非軍事化ひぐんじか」と「民主化みんしゅか」です。

日本が二度と自分たちの脅威とならないように、軍隊を解散させ、残った兵器を破壊しました。

また、戦争犯罪人せんそうはんざいにん戦犯せんぱん)を逮捕し、裁判にかけて責任を追及しました。

元総理大臣の東条英機とうじょうひできをはじめとするA級戦犯が「平和に対する罪」を犯したとして、極東国際軍事裁判きょくとうこくさいぐんじさいばん東京裁判とうきょうさいばん)で裁かれました。

東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷で、証言台の前に並んで立つA級戦犯容疑者たちと、背後に控えるアメリカ軍憲兵(MP)を捉えたカラー化写真。
市ヶ谷の旧陸軍省庁舎で行われた極東国際軍事裁判。中央付近に東条英機の姿も(PD:AIによりカラー化)

起訴された28名のうち25名が有罪判決を受け、7名は絞首刑となりました。

天皇の戦争責任は?

天皇の戦争責任を追及する声は、連合国側でも少なくなく、GHQはその方針を当初は明確にしていませんでした。

しかし、マッカーサーは「天皇を戦争犯罪人として裁くよりも、占領政策に利用した方がよい」という判断をします。

1946年1月には昭和天皇が「人間宣言にんげんせんげん」を発表し、昭和天皇が「現御神あきつみかみ」として神聖化されていたことや、日本人が他の民族よりも優越であるとする考えを否定しました。

日本の領土はどうなった?

沖縄や奄美群島は米軍の直接統治下に

戦後、日本の領土は北海道、本州、四国、九州とその周辺の島々に限定されます。

日清戦争後に獲得した領土、つまり台湾や朝鮮などの領土は全て失いました。

しかし、沖縄、奄美群島、小笠原諸島は、アメリカ軍が直接統治することになりました。

これらの島は、直接統治をしてもそれほど予算はかかりませんし、何より太平洋の軍事拠点として、重要な位置にあったということもありました。

北方領土を不法占拠するソ連

現在も続いているロシアによる北方領土ほっぽうりょうどの不法占拠は、この敗戦後から始まります。

占領下の日本は、直接抗議することができず、GHQに「不法占拠をやめさせてくれ」と依頼するしかありませんでした。

しかし、GHQの反応は冷たく、助けにはなってくれませんでした。

ソ連とヤルタ会談の密約で「千島列島はソ連に」という協定が結ばれていたことや、「戦争が終わったばかりのタイミングでソ連とトラブルを起こしたくない」「取り組まなければいけないことが山積み」といった事情がありました。

国民の生活はどうなった?

外地から戻ってくる人たち

敗戦によって、日本の領土ではなくなった台湾、朝鮮、満州などから、人々が続々と戻ってきました。

戻ってきた人の中で、軍人を復員ふくいん、民間人を引きあげと呼んでいましたが、その数はあわせて600万人以上にのぼりました。

引きあげてきた人たちの中には、外地で亡くなった家族の遺骨を首から下げている人も数多くいました。

日本に戻れなかった人たちも…

ソ連による満州侵攻によって、捕まってしまった日本兵や民間人(約60万人)は、極寒の地シベリアに連行され、強制労働を強いられました(シベリア抑留よくりゅう)。

シベリアの過酷な寒さや栄養失調により、多くの方が命を落としてしまいます…。

また、ソ連が攻めてきた際に、日本人を守るべき関東軍は真っ先に逃亡してしまったため、残された多くの民間人が犠牲になりました。

その大混乱の中、親と生き別れた子供は、現地の中国人養父母ようふぼに育てられることになりました(中国残留日本人孤児ちゅうごくざんりゅうにほんじんこじ)。

たけのこ生活とは?

空襲によって多くの工場が破壊され、生産力が大幅に落ち込む一方、物価は急激に上昇しました。

復員や引きあげによって、人口が急に増加し、失業者だらけになってしまいました。

悪いことに1945年は、米が記録的に不作で、深刻な食糧難に見舞われます。

都会の人たちは、「買い出し列車かいだしれっしゃ」に乗って、農村部まで出かけていきました。

農家の方に、着物などを食料に換えてもらえるよう交渉したのです。

こうした生活は「たけのこ生活」といわれました。

衣類や家財道具を少しずつ売っていくのが、たけのこの皮を1枚ずつ剥ぐのに似ていたからです。

非合法マーケットの「闇市」とは?

戦争が終わっても、配給制は続いていましたが、全く足りていませんでした。

人々は上野や新宿の駅前でできた非合法の市場で、生活必需品を買い求めます。

これらの市場は、非合法であることから「闇市やみいち」と呼ばれました(夜だけ営業していたから闇市というわけではなく、昼間からやっていました)。

占領下の東京・新橋駅前にあった闇市のカラー化写真。復員服や着物姿の人々が行き交う様子。
東京の新橋にあった「闇市」。深刻な食糧不足の中、人々は生きるために「闇市」に集まりました(PD:US military Photograph/AIによりカラー化)

驚くのはその値段です。

例えば、国が決めた値段(公定価格)で1キロ50銭くらいのお米が、闇市では50円〜70円。

なんと100倍以上の値段で売られていたのです。

それでも生きるために、高いお金を出して買っていたんですね…。

【一問一答】「占領政策の開始」のチェックテスト(問題・解答)

GHQの基本方針「非軍事化」「民主化」は、この後の単元でも、また公民分野でも出てきますので、しっかり覚えておきましょう。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. GHQは「General Headquarters」の略です。 ↩︎
  2. 日本が占領にあたって負担した費用には、米兵が食べるチョコレート代なども含まれていました。米兵がそのチョコレートを日本のこどもに配ることで、アメリカに対しての印象を良くしようとしました。 ↩︎

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