江戸幕府が260年以上も続いた理由の一つに、ガッチリとした「身分制度」がありました。
それまでは、実力があれば武士になれたり、農民が武器を持って暴れたりと境界線が曖昧でしたが、江戸時代は「職業」と「住む場所」が固定されたのが大きな特徴です。
今回は、それぞれの暮らしぶりやシステムに注目してみましょう。
支配者としての武士
ピラミッドの頂点にいたのが武士です。
彼らは名字を名乗り、刀を腰に差す苗字帯刀という特権を持っていました。
かつての武士は自分の領地で農業もしていましたが、江戸時代の武士は城下町に集められました。
自分では田んぼを耕さず、主君から俸禄としてお米をもらって生活する、今で言う「給料制の公務員」のような存在になったのです。
団結して村を守った百姓
人口の約8割~9割を占めていたのが百姓です。
彼らは村に住み、農業や漁業で国を支えていました。
村の運営は村役人、もしくは村方三役と呼ばれるリーダーたち(下記の表を参照)が行いました。
| 名主 庄屋(関西) 肝煎(東北・北陸) | 組頭 | 百姓代 |
| 村のリーダー。 今でいう村長のようや役割。 場所によって呼び方が変わる。 | 名主の補佐役。 | 百姓の代表者(代弁者)。 名主の不正を監視する |
村には、みんなで薪や草を取る共有地の入会地があり、ルールを破ると村八分1という厳しい絶交状態にされるなど、運命共同体としての厳しい掟がありました。
百姓の中にも格差があり、自分の田畑を持つ本百姓に対し、土地を持たず小作や日用(日雇)などで生計を立てる水のみ百姓もいました。
本百姓は村の運営に参加できますが、水のみ百姓はできません。
とはいえ、江戸時代の初期はほとんどが本百姓でした。
幕府は、年貢を納める土台である本百姓が没落しないよう、1643年に田畑永代売買の禁止という法律を出し、土地を売ることを禁止しました。
気になる税金の年貢ですが、収穫の4割を納める四公六民が基本でした。
しかし幕府の財政が苦しくなると、5割を納める五公五民へと負担が増えました。
また、藩によっては最初から取り立てが厳しいところもあり、地域差も大きかったようです。
これらを確実に納めさせるため、5軒一組で連帯責任を負わせる五人組という制度で監視し合っていました。
現代のように地方自治が行き届いていなかった江戸時代は、こうした村の自治システムの上に幕府が成り立っていたともいえます。
経済の中心・町人
城下町2に住み、商業や工業を担ったのが町人です。
町の運営は、豪商などの町年寄や町名主と呼ばれる町役人が担当しました。
町人の中にも格差があり、自分の家や土地を持つ「家持」は町政に参加できましたが、長屋などに住む「借家人」にはその権利はありませんでした(そのかわり税負担もなし)。
町人は、百姓でいうと土地を持っている本百姓と同じような位置づけですが、百姓のほとんどが本百姓であったのに対し、町の運営に参加できる家持の町人は少数派でした。
彼らは、営業の独占権を認めてもらう代わりに「営業税」を現金で納め、経済を支えていたのです。

町人においても、上下関係がありました。
職人であれば親方と弟子、商人であれば主人の下に番頭(使用人のトップ)、手代(中間管理職)、丁稚(見習い。小僧ともいいます)という序列がありました。
厳しい差別のなかで
社会の枠組みの外には、えたやひにんと呼ばれ、差別を受けていた人たちがいました。
| えた(西日本ではかわた、東日本では長吏) | ひにん |
| 農業 牛馬の解体・皮革の加工(雪駄づくりなど) 犯罪者の逮捕・刑の執行 | 役人の下働き(囚人の送迎など) 芸能 |
彼らは住む場所を制限されたり、特定の職業しか許されなかったりと、日常生活のあらゆる場面で厳しい差別を受けました。
幕府は身分の低い層をさらに細かく分けることで、農民らの不満をそらす「分断」を図ったともいわれています。
【一問一答】「江戸時代の身分と社会」のチェックテスト(問題・解答)
鎌倉・室町時代に比べて、ずいぶん管理が厳しくなったと感じませんか?
幕府のこの仕組みが、長く続けられた側面もあるという声もあります。
徳川によるこの支配構造については、現代の専門家でも賛否両論あるようです。
今日はここまで。
アリーヴェデルチ!



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