【中学歴史・第52回】フランス革命(ルイ16世・ナポレオン・ウィーン会議)|一問一答テスト付

中学歴史

18世紀後半、太陽王・ルイ14世が築いた豪華絢爛な絶対王政ぜったいおうせいが大きな転換期を迎えます。

イギリスの市民革命(ピューリタン革命と名誉革命)や、ロックやルソーなどの啓蒙思想けいもうしそうの影響で、「国王といえども法に従い、国民の権利を守るべきだ」という考え方が、フランスにも広がっていました。

今回は革命がおこった背景や理由、権力がどのように移っていったのか、またどのように社会が変わったのかに特に注目しましょう。

なぜフランスで革命が起きたのか?

当時のフランスは、国王が絶対的な権力を持つ絶対王政の時代でした。

アンシャン・レジーム(旧制度)という身分制度のもと、社会は3つの身分に分かれており、聖職者の第一身分と貴族の第二身分は、広い土地を持ち税金も免除されるという特権を持っていました。

一方で、人口の9割以上を占める平民(第三身分)は、重い税金に苦しみ、政治に参加する権利もありませんでした。

アメリカ独立革命への加担

イギリスとの度重なる戦争によって、フランスの国庫は火の車でした。

そこにアメリカ独立革命がおこります(1775年)。

イギリスをライバル視していたフランスは、アメリカの独立を助けるために多額の軍事費を出しました。

これが国の財政難をさらに深刻なものとします。

異常気象による大凶作

1783年に、アイスランドにあるラキ火山が噴火。1

この影響で冷夏が続き、小麦がとれない大凶作になりました。

パンの価格が跳ね上がり、フランスの街にも飢えで苦しむ人々があふれました。

1789年、歴史が動く

1789年、ついに事態が動き出します。

  1. 5月5日:三部会さんぶかいの招集
    多額の借金を返すために、第一身分と第二身分にも新しい税金をかけたい国王ルイ16世は、3つの身分の代表が集まる三部会を開きます。しかし、議決方法をめぐり、話し合いは進みません。
  2. 6月17日:国民議会こくみんぎかいが成立
    しびれをきらした第三身分の人たちは「自分たちこそが国民の代表だ」として、国民議会をつくりました。
  3. 6月20日:球戯場きゅうぎじょう誓い
    第三身分の議員がベルサイユ宮殿のテニスコートに集まって「憲法制定まで国民議会は解散しない」ことを誓います。
  4. 7月14日:バスチーユ牢獄ろうごくの襲撃
    「国王が軍で民衆を鎮圧しようとしている」という噂が広まり、パリの民衆が武器を奪うためバスチーユ牢獄を襲撃。革命がはじまります。
  5. 8月26日:人権宣言じんけんせんげんの発表
    国民議会は「自由・平等・国民主権」をうたった人権宣言を発表。これはアメリカ独立宣言の影響を強く受けつつ、全人類に共通する普遍的な理念として世界中に衝撃を与えました。

恐怖政治からナポレオンの登場へ

革命が進むと、フランスは国王のいない共和政きょうわせいとなります(1792年)。

1793年にはルイ16世が処刑され、周辺の国々は「革命が自分たちの国に広まっては困る」とフランスに攻め込んできました。

この危機に立ち向かうため、ロベスピエール率いる急進派が権力を握ります。

彼らは徴兵制を導入して軍を強化しましたが、国内では反対派を次々とギロチンで処刑する恐怖政治を行い、国民を震え上がらせました。

やがてロベスピエールも失脚し、5人の総裁が政治を行う総裁政府が誕生しますが、政治の混乱は収まりません。

そこで人々が期待を寄せたのが、軍隊で連戦連勝していた若き天才軍人、ナポレオンでした。

英雄ナポレオンの栄光と挫折

ナポレオンは革命の混乱を鎮め、1804年には自ら皇帝の座につきます。

彼は軍事の天才であると同時に、法の下の平等などを定めたナポレオン法典ほうてんを作り、フランス革命が掲げた「自由と平等」の理念を、遠征を通じてヨーロッパ各地へ輸出していきました。

彼の歩みを時系列で追いかけてみましょう。

  1. エジプト遠征(1798年):宿敵イギリスとインドの連絡路を断つために出兵。ここで発見されたロゼッタストーンは、のちに古代文字の解読に貢献します。
  2. トラファルガーの海戦(1805年):海上でイギリス軍に挑むも敗北。イギリス本土への上陸は断念します。
  3. アウステルリッツの戦い(1805年):ロシア・オーストリア連合軍に大勝。絶頂期を迎えます。
  4. ロシア遠征(1812年):イギリスとの貿易を続けるロシアを懲らしめるために、60万の大軍でモスクワへ。しかし寒さと飢えで壊滅状態となり、ナポレオンの神話が崩れます。
  5. エルバ島への流刑(1814年):連合軍に敗れ、一度は島に流されます。

革命の結末:ウィーン会議

ナポレオンが島に流された直後、ヨーロッパの国々は後始末のため1814年からウィーン会議を開きました。

ところが、会議は「踊る、されど進まず」と皮肉られるほど難航。

そのすきに、ナポレオンがエルバ島を脱出します。

しかし、1815年のワーテルローの戦いで完敗し、今度は大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島へ送られました。

結局、ウィーン会議によってヨーロッパは「革命前の状態に戻そう」というウィーン体制に落ち着きます。

しかし、フランス革命とナポレオンの遠征が世界中にばらまいた「自由・平等」という理念は、その後世界に大きな影響を与えました。

革命前後でフランスの政治はどう変わった?
革命前は、国王が強い力を持つ絶対王政が行われ、身分によって権利に大きな差がありました。しかし革命後、人権宣言が出されたことで、人は生まれながらに自由で平等であるという考えが広まりました。政治の仕組みは、国王が支配する形から、国民が主権を持つ民主主義の形へと変化しました。これにより、身分に関わらずすべての国民が政治に参加する近代的な国づくりが始まりました。

【一問一答】「フランス革命」のチェックテスト(問題・解答)

ナポレオンが失脚したあと、フランスは王政と共和政の行ったり来たりを繰り返します。

中学校の教科書ではあまり詳しく書かれていませんが、興味があったらぜひ『学習まんが 世界の歴史』などで一度確認してみてください。

今日はここまで。

アリーヴェデルチ!

  1. 同じ年に日本でも浅間山が大噴火しています。 ↩︎

解説文やプリントの効率的な使い方はこちらからご確認いただけます。

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